市民の情熱にまちが動いた 花を素材につくりあげた時が経っても美しいまち
恵庭市プロジェクト
文:高橋さやか 写真:斉藤玲子
「花のまち」として、全国的に知られる恵庭市。「恵まれた庭」という地名にふさわしく、花と緑で彩られたまちは、市民が中心となり長い時間をかけてつくられてきました。
人の手がかかる花は、景観を美しくするだけでなく、関わる人の間にコミュニケーションを生み、まちを息づかせてきたのです。
理想のまちの姿に出会った花とくらし展
2020年度の完成を目指して整備中の、道と川の駅「花ロードえにわ」周辺エリア。広大な敷地にはガーデンエリアを始め、市民や来訪者の交流場所となるセンターハウスなどがつくられます。新たな花の拠点となるこの場所で、花のまちづくりの中心となって活動してきた内倉真裕美さん(恵庭花のまちづくり推進会議会長)と、恵庭市花と緑・観光課の三浦貴大さんにお話をうかがいました。
ーー内倉さんがガーデニングに取り組んだきっかけは何だったのでしょう?
内倉:花とくらし展が1990年に開催された時に、ニュージーランドのクライストチャーチの花のまちづくりについてのお話があって、ガツンときたんです。環境コンサルタントである杉尾邦江さんの基調講演で、美しいまち並みのスライドを見ながら、こんなまちにしたいなと思って。
翌年に恵庭市役所の方と市民の有志の方が視察に行ったんですね。その報告会のスライドを見たときに、さらに感銘を受けて。「これだ!」と。
1988年に私が恵庭に引っ越してきた当時は、恵み野という場所が新興住宅地で、信号機も何もなくって。新しい人ばかりでね、小学校も夏休みに1クラス春休みに1クラスと、どんどん増えていくような時期。私の子どもも、ちょうど小学生でしたけど、この子たちが大きくなった時に、ふるさととして誇れるような場所にしたいと思ったんです。ふるさとっていうのは、何もないところに誰かが作っていくことによってできていくから、自分たちで作っていこうと。
クライストチャーチのスライドを見て、理想のまちの姿に出会った内倉さん。思い描く花と緑があふれるまちを実現するため、自らが中心となって活動していきます。
内倉:クライストチャーチ訪問の報告会で、ガーデニングのまちになったのは、ガーデンコンテストをしたからだ、と聞いたんです。それで、「ガーデンコンテストを開催したいんです」と市役所に聞いたら、「造園業の方に相談してごらん」というので相談しに行きました。
お話ししに行ったのが、北集園の内田さん、サンガーデンの藤井さん、リョクサンの手島さん。みなさんちょうどクライストチャーチの視察にいった方だったから、「いいね。いいね」とトントン拍子に話が進みました。
最初の2年間は公募だったんだけど、3年目からは恵み野花探偵団という名前で、素敵なお庭を探して表彰する形に変えて。お祭り会場で表彰式をでやったことで、みなさん興味を持ってくれたみたい。ガーデニングをするお家がどんどん増えていきました。
婦人会なんかで集まる時にも、ニュージーランドで視察してきた上映会も混ぜちゃって。どんどん巻き込んでいくの。素敵なお庭の写真を見たら、みなさんやりたくなるんですよね。
そういった活動に加えて、恵庭というまちがもともと花苗の生産が盛んだったということが大きいですよね。
商店街の前の大きな花壇桝も昔は雑草だらけだったの。
三浦:商店街の花さんぽストリートも内倉さんが周りに声をかけて、みなさんやる気になってくれたんですよね。
内倉:2014年にバリアフリー工事をすることになって、商店街として花壇桝をきれいに管理していくことにしようって。みんなにスライド上映会をしたんです。
「あまり手がかからず、かっこいい花壇にしましょう。ひとりひとりのお店の看板になるような庭をつくりましょう。」とお話ししたら、みなさん参加表明してくれたんです。
まちづくりは、人を巻き込むから楽しい
内倉さんが中心となって「花の通り」に変貌をとげた恵み野西商店会は、1995年に第1回北海道花と緑のまちづくり賞を受賞。恵み野花づくり愛好会も、同年に第5回全国花のまちづくりコンクールで建設大臣賞を受賞します。
そのポジティブな行動力の源をたずねると、「これだ!と思ったら、すぐに行動しちゃうの。寝てられないくらいに。」と笑顔でこたえてくれました。
ーー内倉さんをはじめとした花のまちづくりに、市役所はどう関わってきたのでしょうか?
三浦:みなさんの思いを形にしたいと、必死に食らいついてきた感じですね。ただ思いがすごすぎて。(笑)
内倉:「内倉さんのやってることは人を巻き込みすぎる」って言われたことがあるの。でも、まちづくりって人を巻き込むものだし。その方が楽しいじゃない。
ガーデンコンテストをするところから始まって、小さな積み重ねですよね。最初は写真も36枚撮りのフィルムで撮っていたのよ。
この花の拠点も、数十年前からの夢。自分の庭づくりに、商店街の整備、オープンガーデン・・さまざまな取り組みをしてきましたけど、こんなにトントン拍子にいくとは。
市役所のかたは、当初から見守ってくれて。冷たいことを言われた時もあったけど、実現するために、計画を作ってくれたり、環境を整えてくれたというのはありがたいですよ。
三浦:恵庭のまちづくりって、もともとは情熱的な市民の方が中心となって進めてきたものに、なんとか行政も同じ方向を向いてやってきた、というところがあります。当時の担当者が「花のまちを盛り上げていきたい」という強い思いを持っていたことも大きいですね。
雑誌のガーデニング特集で取り上げられるなど、恵庭が「花のまち」として全国的に知名度を上げていく中で、来訪者のマナーの悪さで住民が困るという問題も生じるように。また、一緒にまちづくりを盛り上げてきた仲間からも、不満の声があがり、花のまちづくりについて、市民と行政が向き合うきっかけとなりました。
内倉:ガーデンコンテストで写真を撮って紹介していたら、市民の方から「あそこに花を植えていいのか?」という声があったり。商店会の会長が、「俺たちが花を植えて、行政からは補助金も何もないんだ、内倉さん市役所に行ってこい」と言われたりね。その都度、市の方に相談してきました。
紆余曲折を経て、1998年には、えにわ花のまちづくりプランができて、花と緑の課が新設されたんです。時間がかかっても一緒に盛り上げてくれるんですよね。
三浦:情熱に押されたんだと思うんですよね。何か問題が起こったからといって、全部なしにするのではなく、ルールづくりだったり、うまく見てもらえたり楽しんでもらうにはどうしたら良いのかを行政として一緒に考えてきました。
ステップアップしていく花のまちづくり
市民の情熱が行政を動かす形で進んできた恵庭の花のまちづくりは、あらたな過渡期へときています。
ーーまちづくりは、20年30年の下地があって花開くものですが、今後、花のまちづくりをどうつないでいくのでしょう?
三浦:いま恵庭市の花のまちづくりは、ステップアップしていくところにあります。2020年の花の拠点「はなふる」の完成、2022年の全国都市緑化北海道フェアと大きなイベントが控えています。1990年の花とくらし展が起爆剤となって、花のまちづくりが加速したように、ステージが上がるものになっていけば・・と話していますね。
私たちとしても、10年20年先を想像し、市民のみなさんから要望をいただきながら、一緒にやっていけることを考え、取り組んでいるところです。
内倉さんのようにバイタリティある方は稀有な存在ですが、若い方も増えてきているので未来は明るいのではないかと。
内倉:30代40代のみなさん、すごく良い方ばかりで。リーダー的な方がたくさんいらっしゃるの。今は働いてる女性が多いから、社会の仕組みを理解してるのね。みんな知的ですよ。
三浦:内倉さんの思いにみんながついていった時代を経て、今は、みんなが意見を出して、今後の花のまちをどうしていくのか、話し合いながら進んでいます。議論できる場がつくられている印象ですね。まちづくりとしては、色々な方の意見が入ってきているので、すごく良い形になってきて。もっともっと盛り上がっていくと思います。
「通過するまち」と言われることもある恵庭ですけど、札幌へ向かう途中で、一度足をとめて見てもらえたらいいですね。
内倉:恵み野に子ども達が戻ってきてくれてるんですよ。商店街も息子たちが入ってきて。第二世代が育ってきたということは大きいですね。戻ってくるなんて思ってもみなかった。
昔は「ふるさとがどこなの?」って言われた時に、恵庭ってわからない人が多かったんだけど、今は「花で有名なところね」って言われるようになって。息子の友達が東京の大学に進学した時にそう言われて、その子のお母さんがすっごく喜んでいました。30年前は想像もつかなかったですね。
花は材料。まちづくりが主たるもの。お花って怒る人いないし、心が安らぐでしょ。老若男女みんなが良いと思えるもの。だから、素材がよかったんです。
子どもたちにふるさとを残したい。何もないところに誰かが作っていくことで、それが実現できるのなら、自分たちで作っていこうと始まった、花のまちづくり。30年の時を経て、恵庭は子どもたちが戻ってくるまちになりました。
「少なくとも衝突ゼロではなかった」と、これまでの歩みをふり返る内倉さんと三浦さんですが、時にぶつかり合いながら市民と行政が一体となって、進んできました。新しい世代へと引き継がれ、育っていく花のまちのこれからが楽しみです。