稚内は、はしっこではなく世界へ続く第一歩。紡がれる樺太との歩み
稚内市プロジェクト
文:立花実咲 写真:原田啓介
稚内は、日本の最北の地。
ですが、かつて稚内よりさらに北に、日本の領土が広がっていた時代があります。
日露戦争翌年の1905年から、第二次世界大戦が終わる1945年まで、樺太(現在のサハリン)の南半分は、日本の国土の一部でした。そして稚内を玄関に、積極的な交流がおこなわれていたのです。
終戦直後に、樺太はソ連の侵攻に遭い、現在はロシア連邦サハリン州となっています。日本とロシア(当時のソ連)との対話は、今でも継続されていますが、稚内の人々が平和を願い、サハリンの人々と交流を続けてきたことは、あまり知られていません。国政に翻弄されながらも、現在に至るまで、サハリンとの平和的なあり方を探りつづけてきました。
天気がいい日は、今でもサハリンが望める稚内。手を伸ばせば届きそうな、近くて遠いサハリンと稚内との交流の軌跡は、平和を模索する現在の取り組みの根底を支えています。
平和を願う人々のストーリー
平和的な関係を築くために、表舞台の光を浴びないところでも、人々にたくさんの葛藤と挑戦があったことを想像することができます。
今日までに至る、歩み寄りの軌跡を教えていただきたく、稚内と樺太の関わりについて、ていねいにまとめられている稚内市樺太記念館へお邪魔しました。
資料を拝見しながら、稚内市樺太記念館の立ち上げに携わった教育委員会所属の斉藤譲一さんに、解説していただきました。
ーーまずは樺太の概要を、教えていただけますか。
斉藤:島の面積は7万6,400㎢で、北海道とほぼ同じ大きさです。現在は、約48万人ほど住んでいると言われています。そのうち、第二次世界大戦後の混乱で帰国できず、今でも暮らし続けている方が86人いらっしゃいます。(*1)
斉藤:樺太は、ロシア領だったり日本領だったり不安定な時代が続きましたが、現在はロシア領となっています。しかし、ユジノサハリンスクやコルサコフには日本統治時代に作られた北海道拓殖銀行の支店の建物や、島の田舎の方に行くと鳥居や線路などが残っています。
線路については、最近まで日本統治時代のものがそのまま使われ、サハリンに暮らす人々の生活を支え続けていました。ユジノサハリンスクにある、旧北海道拓殖銀行の豊原支店は、サハリン州立美術館として現在も活用されています。
斉藤:豊原支店の豊原とは日本名で、現在はユジノサハリンスクという地名で、約20万人が住む都市です。日本統治時代は樺太庁が構えられ、札幌や北海道の他の街の都市計画を手本に開発が進められました。そのため、ユジノサハリンスクは碁盤の目のように区画整理がされているんですよ。
ーー現在はサハリンに行くにはパスポートが必要ですが、日本の領土だった時代があるんですね。どういった歴史をたどったのか教えていただけますでしょうか。
斉藤:樺太には、もともとアイヌやロシアから渡って来た人々などが暮らしていました。江戸時代、1855年には日露和親条約を締結し、明確な国境を定めないという取り決めをしていたんです。
ですが、1875年(明治8年)に、樺太・千島交換条約が締結され、樺太は全土がロシア領になります。その際は、ロシアの流刑地としてサハリンにたくさんの囚人が移住してきました。
1890年には、医者でもありロシアの作家であるアントン・チェーホフが3ヶ月間にわたりサハリンを旅して、後に『サハリン島』という旅行記を執筆しました。著書によると、当時のサハリンは、開発途上な地域でもあり、快適とは言えなかったようです。
その後、1904年に日露戦争が開戦し、翌年にはポーツマス条約が締結されます。これを機に、北緯50度以南は、南樺太として日本の領土になるんです。
日本領から再びロシア領へ
斉藤:そうです。大泊(おおどまり。現在のコルサコフ)と豊原間で、軍用物資の運送が必要になり、線路ができました。樺太で最初の鉄道の誕生です。
さらに1923年には稚内と大泊を繋ぐ稚泊(ちはく)航路が開通し、翌年は稚内と本斗(ほんと。現在のネベリスク)を繋ぐ稚斗航路が整備され、一気に発展していきました。
北緯50度の国境132キロに置かれた国境標石のレプリカ。日本側から見ると菊の紋章、ロシア側から見ると鷲の紋章が施されている。
ーーどんな産業が興ったんでしょうか。
斉藤:森林資源が豊富でしたので、林業や製紙業が発展していきました。王子製紙の大泊工場もあったんですよ。現在でも工場跡地を見ることができます。
他には石炭がたくさん採れたことから鉱業、それからニシンを筆頭にカニや鮭、マス、昆布など水産物も豊富でしたから漁業も盛んでした。
2つの重要な航路が開通したことで、稚内市も北の玄関口として、急ピッチで整備されていきました。今でも市内に稚内港北防波堤ドームが復元されていますが、本来は1936年に完成して使われたもので、かつてはドームの横に連絡船が乗り付けて、鉄道へ乗り継ぎできるようになっていたんですよ。
ーー船と鉄道が同じ場所で乗り継げる事例を初めて聞きました。当時の発展の勢いを感じるエピソードですね……。
斉藤:そうですね、当時の最新技術を駆使して作られた、現代でも通用するような駅だったのだろうと思います。
ところが第二次世界大戦が開戦してからは、状況が一変しました。1945年8月9日にソ連軍が樺太に侵攻してきたんです。現地に住んでいた多くの人が、北海道や本州へ引き揚げを余儀なくされました。稚内においても樺太の島かげが望めるこの地に、多くの方が定住しました。
1949年には樺太庁が廃止され、現在はロシア連邦サハリン州となっています。
ーーロシア領になったあと、稚内とサハリンはどういった関係を築いていったのでしょうか。
斉藤:2001年には、稚内市とユジノサハリンスクが、友好都市提携を調印しました。その後、交流事業が毎年おこなわれています。
今年は新型コロナウイルスの感染拡大の影響に配慮して、中止になってしまいましたが、毎年夏に両国の高校生に向けてホームステイを実施したり、道北地方の各都市と共同でユジノサハリンスク市内の商業施設で道北物産展を開催したり。
斉藤:稚内市樺太記念館でご覧いただける映像作品も、稚内北星学園大学の学生さんたちに作っていただいたんですよ。学生さんの中にも、樺太にルーツを持つご家族やご親戚がいるかもしれませんよね。そこで、自分たちが暮らしている地域と深く関わりを持つ樺太の歴史を、学生さん自身で取材して、文字起こしから動画作り、ナレーションの録音まで、手がけてもらいました。
最北端と考えるか、ユーラシアとつながる出入り口と考えるか
稚内市樺太記念館の常設展を、斉藤さんにご案内いただく中で、筆者が感じたことがありました。それは「領土が頻繁に変わっているにもかかわらず、どこか友好的な、不安定な情勢に柔軟に対応している雰囲気がある」ということ。侵略した側、された側という二項対立が生まれ、緊張状態のまま時代が移ろっていてもおかしくはありません。筆者が感じた雰囲気を、思い切って斉藤さんに伝えてみました。
ーー語弊があるかもしれませんが、稚内とサハリンとの関係性については殺伐とした、敵対したような雰囲気が、あまり感じられなかったです。
斉藤:そうですね。
もちろん、戦争で人生を翻弄され、帰りたくても帰れない方や、つらい思いをした方々はたくさんいらっしゃいますので、一概には言えません。
ですが、敵対し続けるよりは友好のあり方を探す道を、選んできたという部分もあります。
ーー斉藤さんはサハリンへ行かれたことはありますか?
斉藤:1回だけ、あります。
ーーどんな場所でしたか?
斉藤:近い街だなと感じました。稚内からだと、札幌へはJRで5時間くらいかかるんです。一方で、稚内から樺太へも、船の大きさにもよりますが約5時間前後で行くことができます。移動時間だけを考えれば、稚内から札幌へ行くのとたいして変わらないんですよね。
国家的な関係性はさておき、個人と個人の関わりであれば、興味を持って交流することはできるんじゃないかなと思います。
ーーふだん生活していて、斉藤さんご自身がサハリンの存在を感じることはありますか?
斉藤:私は旭川出身なのですが、旭川にいたときよりも市内の方々との会話で「サハリン」だとか「国境」という言葉が出てくるな、と感じたことはあります。
北海道自体、日本の最北の地域ですが、旭川に住んでいたときは特に実感がありませんでした。ですが、自分たちは国境に住んでいるという意識が、稚内の方々は他の地域の方々より、強いのかもしれない、と個人的には思いますね。
稚内は日本の最北と表現されますが、はしっこの街ととらえるか、ユーラシアへ続く一歩と考えるかで、街の見え方が変わるなと思います。
筆者は北海道内在住ですが、今回の取材をきっかけに、初めて稚内を訪れました。市内の看板には、日本語と英語、そしてキリル文字が。あまりにも街にとけ込んでいますし、稚内市在住の方にとっては珍しくもないかもしれません。ですが、異国の存在感が突如強まったように感じ、「稚内では国境やサハリンという言葉をよく耳にする」とおっしゃった斉藤さんのエピソードを思い出しました。
2019年から、稚内とサハリンをつなぐ稚内・コルサコフ定期航路は休止。人々の往来は、栄華を極めていた時代とくらべると、大幅に減少してきています。ですが、2020年現在も稚内市と旭川市、そしてサハリンの企業とともにオンラインミーティングをおこなうなど、つむがれてきた関係性を守ろうと、すでに前向きに動き出しています。
稚内とサハリンは、お互いに平和的なつながりを探究しながら、有機的な関係性を築くための種をまき続けてきました。それらが今後、どんなふうに花開き、未来へ受け継がれていくのか目が離せません。