平和の尊さを未来へ。稚内が目指す医療と子育て制度の充実
稚内市プロジェクト
文:三川璃子 写真:原田啓介
安心して子どもを産み、育てられる町へ。
45km先にはロシアサハリンが見える国境の町、稚内。ここでは、かつて他国との争いが身近にありました。当時の辛く悲しい出来事は、風化することがないよう、次の世代へと受け継がれています。
「これから生まれてくる子どもたちには同じ想いをして欲しくない」
誰もがすこやかに育つ環境づくりを目指し、稚内市では子育て運動や医療制度の充実を図ってきました。
一筋縄ではいかなかった、今日までに至る歩み。稚内が目指す「高齢者も子どもも輝ける未来」への取り組みについて、稚内市生活福祉部の高師さんと山川さんにお話を伺いました。
稚内の平和を途絶えさせないために
昭和61年、稚内は全国で初めてとなる「子育て平和都市」を宣言。その背景には国境の地、稚内で起きた数々の悲しい歴史が大きく絡んでいました。
ーー「子育て平和都市宣言」にはどういった背景があったのでしょうか?
高師:稚内には戦争の悲惨さが語られるイメージってあまりないと思うのですが。実は国境にまつわる悲しい出来事が、いくつも起こっています。
その一つが、稚内公園にモニュメントが建つ「九人の乙女の碑」にまつわる出来事です。太平洋戦争の終結が宣言された昭和20年8月、日本領だった南樺太(現サハリン)の真岡町(現ホルムスク)は、ソ連軍の侵攻を受けました。ソ連軍に攻められる最中、電話交換手として働く9人の女性はその場から逃げず、最後まで通信確保の任務を果たし、自決します。当時10代〜20代前半だった彼女たちが、若くしてこの世を去ってしまったこの悲劇は、北のひめゆり事件とも呼ばれています。
その38年後の昭和58年には、「子育て平和都市宣言」の一つのきっかけとなる大韓航空機撃墜事件が起こります。稚内の目の前にあるサハリン西海域で、民間航空機がロシア軍に撃墜され、269名の方が亡くなられました。
もともと市民ぐるみの子育て運動は盛んに行われていましたが、この悲しい事件をきっかけに、より一層、市全体で子どもたちの未来を守ろうという流れに変わりました。家庭、社会、世界の平和への願いを次世代につないでいくため、昭和61年に全国で初めて「子育て平和都市」を宣言しました。
安心してこどもを産み、育てられるまちづくり
子育て平和都市宣言後、稚内市ではふるさとの次代を担う子どもたちの健やかな成長を願って、市民ぐるみで平和なまちづくりと、安心して子育てができる環境づくりを進めてきました。
ーー子育て平和都市宣言後、具体的にどのような取り組みをされてきたのでしょうか?
高師:子育て支援運動が大きく動き始めたのは平成10年代です。それまでは、どちらかというと高齢者への支援策や制度の方が多かったと思いますが、平成11年に就任した横田市長の頃から少しずつ子育てにフォーカスした支援が充実していきました。
平成14年には「実践的政策形成研修」が開催され、受講した職員が1年間かけて新しい政策を提案するという取り組みが行われたんです。私が所属したグループでは「安心して子どもを産み、育てられるまちづくり」をテーマに政策を考えました。ちょうど、自分自身も幼稚園に通う娘がいたこともあって、先輩職員と一緒に子どもを気軽に預けられるファミリーサポートセンターの創設、教育と福祉に分かれていた子育て支援窓口を一本化するために「こども課」の創設も提案し、実現しました。
安心して子どもを産み、育てられるまちづくりを目指す中で、主任児童委員の皆さんと「子育てガイドブックすくすく」という冊子を一緒に作る機会がありました。子育て支援策や相談窓口を調べたり、安心して子どもが遊べる公園やスポット、市内の子育てサークルなどの取材をしました。私はこの冊子の編集を担当したんですが、主任児童委員の皆さんの子育てに対する熱量や、子どもたちの健やかな成長を思う気持ちに深く接し、感銘を受けたのを覚えています。
子どもたちを見守る皆さんの存在は、稚内市の宝。スクールガードの方々が雨の日も風の日も通学途中の子どもたちを見守ってくださったり。だから本市の「子育て支援」は、市の施策だけでなく、市民の皆さんの力で成り立っているんだと思っています。
ーー市民ぐるみで子どもたちの成長を見守る活動、素敵ですね。
高師:市民の皆さんと力を合わせて、市も子育て支援制度の充実を目指し、頑張ってきました。市が進めた施策の一つが「てっぺん教育力育成特区」の認定です。通常、公立小学校の教職員採用は北海道が行いますが、市が独自に採用して、少人数学級化を進められるようにしました。少人数学級を増やすことで、生徒一人一人への教育が行き届き、学級崩壊も防げます。また、保育のニーズを満たすため、私立幼稚園が保育業務に参入できるよう「幼保一元化特区」の認定を受けるなど、教育や保育の面でも全国に先駆けて、さまざまな取り組みを進めています。
ーー子育てといっても教育から社会福祉まで、さまざまな角度から取り組みをされてきたのですね。高校生までの医療費無償化も行っていると伺いました。
高師:そうですね。数多くの支援策がある中で、医療費の無償化は経済支援策の一つとして、平成23年に就任した現在の工藤市長が政策として掲げました。平成24年にまず小学生まで無償化、平成28年には中学生まで拡大。令和2年には、高校生まで対象を拡大しました。他にも経済的支援策として、学校給食費の助成などにも取り組んでいます。
子育てにはさまざまな角度からの支援が必要だと感じます。以前「少子化対策プロジェクトチーム」で経済支援策を考えた時、「そもそも本当にこどもが欲しくて悩んでいる人には、何一つ支援ができていないのではないか?」、「同時期に幼稚園や保育所に何人も通わせるのは、経済的負担が重いのではないか?」という考えに辿り着きました。不妊治療費への助成や第3子の通園費※も、こうした考えから提案して始まっています。(※国の幼児教育無償化により、現在は保育料のみ市独自の制度として実施しています)
子育て支援は一つではなく、多角的にやってこそ意味があります。親たちのさまざまな不安に寄り添えた方がいい。医療費の無償化も、お子さんの体に何かあったときに安心して受診できるよう取り組んできた事業です。稚内市はひとつひとつですが、子どもたちだけでなく、親に対するサポートも怠らずに支援や環境づくりを続けています。
ーー本当にたくさんの支援制度があるのですね。
高師:そうですね。制度がありすぎて迷ってしまうお母さんもいらっしゃるので、自分に必要な制度や情報が一目でわかる「わっかない子育て応援サイトえ〜る」も作りました。年齢や対象別に利用できる制度を検索できるので、とても便利なんです。
また、同時に運用を始めた「わっかない子育て応援アプリえ〜る」も、市からのプッシュ情報が届いたり、母子手帳のように、お子さんの成長記録や予防接種時期も管理できるので、お母さん方に喜ばれています。
こうした支援策に、特に転勤族の方が驚くようで、「稚内は子育て支援が充実していて、本当に助かっている」という声をよくいただきますね。
市民の命を守り、住み続けたいと思える町に。
子育て支援策を多角的に行う稚内市ですが、人口減少に歯止めがきかないのが現状だと言います。人々が安心して稚内に住み続け、子どもを育てるには医療体制の充実が必須です。地域医療の充実に向けて活動する山川さんに、現在の取り組みについて伺います。
山川:開業医の方々の高齢化が進み、診療所は相次ぎ閉院。稚内で1番大きい市立病院では、急性期から慢性期の患者さんまで診なければいけなくなりました。先生の数は増えない一方で、患者さんの数だけが増えていくという事態です。
待ち時間の長さや医師の診療時の態度に市民の不満が爆発。医師は当直明けに30時間以上通しで勤務しなければならないなど、寝る間も惜しんで働いているのに「態度が悪い」なんて言われてしまって。
ーー寝ずに患者を診ている医師が報われないですね…。この状況をどのように改善していったのでしょうか?
山川:苦情が寄せられる中、平成25年に当時の国枝副院長(現院長)が、あちこちに出向いて直接市民に市立病院の現状を説明し、応援して欲しいと訴えました。市民がすぐさまこの訴えに呼応して、医師を応援する流れへと変わっていったのです。
この流れをきっかけに、平成27年に「地域医療を考える稚内市民会議」を旗揚げ。翌28年、市役所に医療対策グループが新たに設けられ、私はそのグループに配属されました。
ーー医療対策グループではどのような活動を?
山川:医師を増やすための誘致活動はもちろんですが、まずは市民と医師側の溝を埋めるため「医療と健康のまちづくり応援団」を立ち上げることにしました。会費は無料で、市民に登録を呼びかけたところ、2万人以上の方が応援団に登録してくださいました。
市民と医師を繋ぐため、病院の待合室に医師への感謝のメッセージを届けるボックスを設置したんです。すると、不思議なことに、自然と不満の声から逆転して、感謝の声が病院に届くようになりました。おかげで医師も市民に寄り添うようになり、今では子どもたちに医療を身近にする講演会や体験会を開くなど、精力的に活動してくださっています。
他にも、救急外来に患者が集中する弊害を知ってもらうため、救急受診チャート「みかた」を作って全戸配布しました。このチャートだけの成果とは思っていませんが、市立病院のコンビニ受診※も少なくなり、医師の負担軽減にも繋がる取組の一つになったと思っています。
※コンビニ受診とは、コンビニに行く感覚で救急外来を利用してしまうこと
町の医師不足は市民の不安に直結します。結果的に充実した医療を求めて札幌や旭川など、都会に移住する人が増えるという悪循環につながってしまうんです。ずっと住み続けたいと思える町を目指し、市民の皆さんと一緒に、必死で取り組みましたね。
ーー市民の皆さんと協力したことで、地域医療の印象も変わってきましたか?
山川:そうですね。もともと稚内の病院は、忙しすぎることで有名で、医師からも敬遠される存在でした。それで新しいお医者さんがなかなか入ってこなかったり。でも、こうして市民の皆さんのあたたかいメッセージが届くようになり、だんだんと新しい先生も入ってくるようになってきましたよ。一時は27人まで減ってしまった常勤医が35人まで増えた時は、本当に嬉しかったです。
また、稚内では平成18年に全国で初めて、診療所開設費用の一部を助成する「開業医誘致条例」を制定しました。そうした政策が功を奏し、口コミなども手伝って、5件の誘致に成功しています。今では市内にある診療所のうち半分以上が、この制度を利用して開設された診療所です。Uターンで開業された方もいますが、本州などから稚内へ移住されてきた方もいます。
安心して育ち、誰もが役割を担える未来へ
子育て支援の充実も、地域医療の充実に向けた活動も、熟慮ある施策が必要です。稚内で生まれ育つ子どもたちの未来を見据えるからこそ、どの施策も一つずつていねいに育まれてきました。これからの稚内が目指す未来を伺います。
ーー今後どのように稚内の未来を描きたいですか?
高師:工藤市長はよく、「このまちに生まれ育ったがために、やりたいことが出来なかった、目指せなかった、ということがあってはいけない」と口にします。
無限の可能性を秘めてこの町に生まれてくる子どもたちが、色んなチャレンジができる町であって欲しいと私も思います。
医療においても子育てにおいても、子どもたちの将来にとって、稚内で暮らすことが、都会と比べてハンデにはならない未来を目指したいですね。
実は、私自身、娘を出産した時に驚いたことがあって。私は破水して病院に駆け込んだのですが、同室にいたお母さん達は、みんな計画分娩の人ばかり。聞けば、それぞれ島(利尻)など近隣町村の方で、自分の町に産科がないので日にちを決めて入院して、陣痛促進剤を使って出産したというのです。それまでは、自分の住むところでお産ができるのは当たり前だと思っていました。それが当たり前じゃないんだと、その時、衝撃を受けました。
診てもらえる産婦人科や、分娩できる病院がない町に暮らす方は、妊娠から出産まで不安を抱え過ごしていると思います。そうした中で、稚内に総合病院があるということは、近隣町村に住む方にとっても、安心感につながるはず。だからこそ、より一層「この環境を守らなければならない」と思います。
そして、誰もが生き生きと暮らせるまちづくりを目指したいと思っています。子どもたちも高齢の方も、今何らかの困難を抱えている方も、それぞれ役割があります。町や人を支え、生きがいを感じられる「地域共生社会」を目指していきたいです。
地域の中には、様々な要因から、ひきこもりの状態にある方もいます。私には28歳になる娘が1人いますが、実は中学に入ったころから学校に行けない、いわゆる不登校の状態になりました。それから紆余曲折あり、今は結婚して3人の子どもにも恵まれ、幸せに暮らしています。そんな経験から、今辛い思いをしている方が、それぞれに合った形でいつか地域の担い手として社会に参加してもらいたいという思いがあります。昨年その思いを形に、「ひきこもり相談窓口」を開設して支援を始めたところです。
「こどもを大切にしない国に 未来はない」という言葉があります。こどもたちが安心して育つ町。 誰もがこの町で役割を持ち、生きがいをもって生活できる。そんな社会を目標に、素敵な未来につなげたいですね。
稚内市が掲げる子育て平和都市宣言には、「ふるさとの次代を担う子どもたちのすこやかな成長と平和なまちづくりをすすめることは、すべての大人の責任である。この願いをこめたふるさとづくりは、わたくしたち市民の責任である」と記されています。(一部抜粋)
悲しい歴史のある稚内市だからこそ生まれた、平和の尊さを後世に繋げるための取り組み。子育てから医療まで多種多様な施策を行い、市民一人一人の未来に寄り添い続けています。
平和を尊ぶ人々に囲まれて育った子どもたちは、きっと「この町に生まれてよかった」と故郷を愛し、未来に向かって成長していくことでしょう。