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余白を残し、次の時代へ。600年の時の音ひびく湯主一條

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余白を残し、次の時代へ。600年の時の音ひびく湯主一條

白石市事業者の想い

文:高木真矢子 写真:平塚実里

宮城県白石市の鎌先温泉で600年以上の歴史を誇る老舗の高級旅館。
鎌先温泉郷で最も歴史が古く、大正時代から昭和初期の建築様式を色濃く残す木造本館は、国指定の登録有形文化財にも登録されています。都会の喧騒を忘れることのできる、自然に囲まれた空間はまるでタイムスリップしたような錯覚に。1428年に開湯してから約600年、この地で綿々と歴史を紡いできた、一條家20代目・一條一平さんにお話をうかがいました。

「若旦那」と呼ばれ芽生えた、後継ぎの意識

今から約600年前の室町時代。白石の木こりが鎌の先で岩の隅を打ったところ温泉が湧き出たことから、「鎌先温泉」の名がついたといわれています。決して大きくはない温泉街ですが、江戸時代には「傷に鎌先、目に小原」と言われ、奥羽の薬湯として、全国から多くの湯治客が足を運びました。

2008年には、「時音の宿 湯主一條」として全館を総リニューアル。まるで、いにしえの時代から現代までの足音が聞こえてくるような空間が魅力です。歴史ある温泉宿の20代目として、一條さんは生まれ育ちました。

一條:名前が「達也※」というんですが、物心ついた頃から旅館のスタッフはもちろん、地域の人たちにも「若旦那」と呼ばれて育ちました。

私が子どもの頃は、今の湯主一條とは違い、いわゆる“湯治場”の賑やかな雰囲気。8畳間にはところ狭しと布団が並べられ、どこでも眠れるくらい。全国から湯治に来たお客さんで常にいっぱいだったんですよ。

父も母も忙しく、旅館のスタッフやお客さんが親代わりのようなものでした。花札や将棋、尺八をお客さんから教わったのも懐かしい思い出です。地域内外のみなさんにかわいがっていただきました。

父はみんなに「旦那様」と呼ばれ、お正月になると食べるお膳も特別で、座るのも上座。
昔は、年始に挨拶に来る番頭さんに帳場(事務所)で「本年もよろしくお願いします」と、新しい半纏(はんてん)を1枚ずつ渡していたんですね。そういう姿を見てきたので、子ども心に憧れる気持ちがありました。

経営の「け」の字も知らなかったので、純粋に社長ってかっこいいなと思った部分もあるかもしれません。「若旦那」と呼ばれ続けることで、無意識のうちに「いずれは自分が後を継ぐんだ」という思いが芽生えていました。

※達也は、一條さんの以前のお名前。湯主一條では当主になると「一平」を襲名(改名)する。

「一條をホテルにしたい」感じた危機感と未来

早いうちから後継ぎの意識を持って育った一條さん。高校生になると、昔ながらの老舗旅館のあり方に疑問を持つようになっていったと言います。

一條:私が中学校3年生のときに、東北新幹線が大宮まで開業したんです。私はたまたま修学旅行で、家族の誰よりも先に新幹線で東京へ行ったんです。
当時、新幹線は、技術進歩の象徴とも言える存在。この温泉街でも、大型鉄筋コンクリート造りに建て替える旅館が出てきて、時代の変化を感じていました。

幸い、その当時も、一條にお客さんはいっぱいいたけれど、木造で古い。「このままでいいのかな?」と、漠然とした疑問を持つようになっていました。
毎年、夏休みに親族がいる東京へ遊びに行き、最終日に京王プラザホテルに泊まるという経験も大きかった。東京と地元の景色とのギャップも感じていました。

ホテルに泊まった時の高揚感は今でも忘れられません。
まず、フロントにいる赤い制服のドアマンがかっこいい。海外からの旅行客がたくさんいて、チェックインのときには必ずネクタイを締め、ブレザーを着てドレスアップしている。
颯爽と働くホテルスタッフの姿に憧れ、「ホテルマンになりたい、一條をホテルにしなきゃ・・」という思いが積み重なっていました。

ーーその後はどのように進まれたんでしょうか?

一條:進学について悩んでいたころ、旅館の机の上に「日本ホテルスクール」の封書がたまたま乗っていたんです。親に反対されるのは目に見えていたので、勝手に書類を送り、夏休みの間に東京に行って二次試験まで済ませました。
母は反対していましたが、父は黙って送り出してくれましたね。

ホテルスクールに入り、サービスの魅力に引き込まれていった一條さん。
研修では、ホテルニューオータニのベルボーイからスタート。次に赤坂プリンスホテルの「マーブルスクエア」というラウンジに配属され、先輩であった現在の湯主一條の女将との出会いもありました。
その後、ホテルワトソンに入社。3年間の勤務を経て、1996年にホテルインターコンチネンタル東京ベイに転職しました。ホテルマンとして充実した10年を過ごしたといいます。

スタッフにも一條さんと女将の技術がしっかりと受け継がれている
スタッフにも一條さんと女将の技術がしっかりと受け継がれている

充実して働く中で持ち上がった、海外赴任の話。
ステップアップを目指す一條さんに、転機が訪れたのは1998年のことでした。
反対を押し切り、疎遠になっていた母と東京でばったり遭遇したのです。


一條:今考えても、ご先祖様が巡り合わせたとしか思えません。
聞けば、露天風呂の建設などを進めたものの、融資予定のあったメインバンクが破綻をしてしまったのでお金が出ない。建設会社も飛んでしまった。要は「助けてほしい」ということだったんですね。

「家の一大事、今手伝わなかったら一生後悔する」一條さんは葛藤しながらも、すでに身重だった妻を説得し、実家に戻ります。そこで待っていたのは変わり果てた旅館の姿でした。

閑古鳥の鳴く旅館と父の死

実家に戻った一條さんが目にしたのは、閑散とした旅館の姿でした。
あれほど客で溢れていた旅館の姿はなく、土日はまだ予約が入るものの、平日は閑古鳥が鳴く状況。旅館の資金繰りは苦しい状況になっていました。スタッフのモチベーションも低く、統率もなかなか取れません。


ーーどのように事業を立て直していったのでしょうか。

一條:いきなり帰ってきた息子とその妻に、あれこれ言われることへの反発だったのでしょう。「変えていかなければ」という、私と妻の焦りとは裏腹に、スタッフの変化に対する戸惑いは形として現れていました。なかなか協力を得ることができず、本当に悩みましたね。

しかし、変えなければ、状況が好転することはありません。
出産した妻は、子どもをあやしながらアイデアや改善点をノート2冊に書き留めてくれたんです。それを元に、父の協力を得ながら根気強く、少しずつ方向性を変えていきました。

広告も打つのにも、折込の経費を浮かせるために、宮城と福島の新聞屋さんに直接届けに行って。「広告を見た」というお客様が入れば、実績報告を父に出すと喜ぶわけですよ。
「少しプラスになったなあ」とか「ちょっとお客さん増えたなあ」とか。
そういうことを繰り返しながらも、やはりすぐには改善しない。

限界を感じていた頃に、父が私に細々とした経営周りのことを教えてくれるようになったんです。教えてもらうことに嬉しさを感じていたものの、どうも父の様子がおかしい。

そして、2003年5月のことです。父が自死という形でこの世を去りました。
予期しないタイミングでの世代交代でした。

この時、ひと月に最低1,000万円の経費が必要なところ、通帳を見ると残っているのは数十万円。一條家の土地はほぼ全てが担保となっていました。
父の死を悲しむ間もなく、一條さんは喪服のまま金策に走ることになります。
司法書士や行政書士、銀行の尽力もあり、なんとか資金の目処がつき、社長として責任を背負う日々が始まりました。

「一平」襲名、ある日芽生えた全てを背負う覚悟

父の死以降、旅館の立て直しに奔走した一條さん。2013年、一條家の一員でもあった義理の祖父もこの世を去りました。その翌年、不意に一條さんの中にある覚悟が訪れます。

一條:義理の祖父の死の1年後です。ある朝、目が覚めたら、「あぁ、おじいちゃんは死んだんだ。もう一條家を支えるのは、私と息子しかいないんだ」と。
「自分が一條家を守らなきゃいけない」、本当に急にその覚悟が胸にストンと落ちたんです。

一條家は、代々長子である男子が当主として「一平」を襲名し歴史を受け継いできました。ですが、父の死もあり、名前を変えるのが嫌だったんです。社長だけでなく、一條家の全責任を追わなきゃいけないっていうのが怖かったんですね。

改名で元の名である「達也」と決別し、「一平」として新たに生きることを決めた一條さん。2004年から取り組み始めた、湯治場の料亭化も結果が出ていたタイミングでした。

一條:世代交代した2003年に、「湯主一條旅館」から「時音の宿 湯主一條」に屋号を変えました。「時音の宿 湯主一條」は、私と妻が「泊まりたい宿にしよう」というのが原点。私たちにとって本当の意味での出発点です。

変革の根幹には、「自分たちが泊まりたいと思う」「こういう接客をしてほしい」という思いがあります。子どもの頃に憧れ、ホテルマンとしての10年を経てより思いを強くした「湯主一條をホテルにする」という信念につながっているんです。

よりクオリティの高いサービスを提供するため、スタッフの教育ももちろんですが、施設としてもいわゆる“高級路線”に大きく舵を切りました。2008年の総リニューアルで、湯治は一切やめ、71室あった客室は24室まで減らしました。
減らした客室を個室料亭にすることで、空間の付加価値も付き、売り上げは2倍以上、単価も3倍以上となりました。

余白を残し、次の世代へ

ーー宿泊させていただき、気持ち良い接客に本当に感動しました。一條さんでは、「おもてなし」という意識ではなく、「ただいまと言えるような場所を目指している」そうですね。

一條:私も女将も、「おもてなし」っていう言葉があまり好きではないんですよね。あえて言うなら、こちらが何かして差し上げたときに、「心地良い」「気が効くね」とお客様が感じること。それをあえて言葉にすると「おもてなし」になるのかもしれません。

うちでは、お客様を「〇〇さま」、そしてお子さんを「〇〇さん」と名前で呼ぶんです。
特にお子さんにとって、初めての場所って怖いわけです。そのときに名前を呼ぶことで、「ここにいていいんだ」って安心材料になるんですよ。お子さんが喜んでいたら、親御さんも安心してさらに喜んでくださる。大人もそうですけど、名前で呼んで差し上げるっていうのは、ものすごく大事で、「ただいま」に繋がるんですよ。

その「ただいま」の実現のためにも、スタッフの作法については厳しくしています。
社員研修で“一流”に触れる機会を作り、「緊張し恥をかいて学ぶ」そういう環境も作っています。

ーーお話をお伺いしていて、あえて厳しい方へと進んでいるように感じました。やはり、一條さんが目指すホテル像に近づくためでしょうか?

一條:そうですね。世界が変化していく中で、旅館は変化に追いついていないんじゃないか?と、危機感を感じているんです。
これまでの歴史を見ても、生き残っている企業は、ある種の厳しさがあります。サービス基準への厳しさであったり、品質への厳しさであったり。
一條の根幹として大切にしているのは、信用や作法というところです。

一流にふれる体験を通した教育による質の高いスタッフの作法や心配りは「湯主一條」の魅力の一つとなっている。
一流にふれる体験を通した教育による質の高いスタッフの作法や心配りは「湯主一條」の魅力の一つとなっている。

ーー一條さんが目指す「ホテル像」へと着実に歩まれていますが、今後の展望はありますか?

一條:次の世代に信用を受け継ぎ、余白を残すことですね。余白があれば新たな発想も生まれる。地域も家業も、次の世代が飯を食えないと話になりません。

コロナ禍で地域を見つめ直す時間ができて、改めて白石市の交通の便の良さや地域資源の豊富さを感じました。ユニバーサルな視点で、白石ならではの良さを生かして行けたらと考えています。一気に結果を出す必要はなくて、5年でゴールに行くよりも、30年かけて地道に築き上げていけばいい。

鎌先全体のために、不要なものは取り払っていって、次の世代が存分に力を発揮できる「余白」を残したいと思っています。

怒涛の人生を送りながらも、前を向き進んでいく一條さん。
荒波に足をとられながらも、腐らずに、確固たる意志を持ち、次の世代を思う一條さんの優しさに、込み上げてくるものがありました。
600年という、長い年月を経てつながれてきたバトンは、これからもこの地でつながれていくのでしょう。

大正14年建築の事務所(帳場)
大正14年建築の事務所(帳場)
個室料亭が並ぶ別館。昭和初期の建築様式がうつくしい。
個室料亭が並ぶ別館。昭和初期の建築様式がうつくしい。

宿情報



時音の宿 湯主一條
〒989-0231 宮城県白石市福岡蔵本字鎌先一番48番地
電話 0224-26-2151
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