まちのシンボルから広がる文化と歴史の輪。白石城再建と鬼小十郎まつりの物語
白石市プロジェクト
文:高木真矢子 写真:平塚実里
奥羽山脈と阿武隈高地に囲まれた白石盆地の中にあり、古来から交通の要衝であった白石市。まちのシンボルである白石城は、戦国武将・伊達政宗の腹心として有名な片倉小十郎の居城で、1874年に「明治の廃城令」で解体されました。
1995年、解体から120年余りの時を経て復元された白石城。復元への道のりと、白石城のふもとで毎年開催される「鬼小十郎まつり」について、お話をうかがいました。
日本に5城の木造復元天守 白石城復元までの軌跡
白石城が建つのは、解体後に益岡公園や県立高校として整備された場所。この地に城を再建するのは、一朝一夕で実現できるものではありません。大切にしたのは、史実にもとづき忠実に復元すること。
解体から120年以来の再建に込められた思いを、 当時担当課職員として奔走した白石市の菊地正昭副市長が語ってくれました。
――白石城の解体から、120年以上の時を経ての復元には、どのような経緯があったのでしょうか?
菊地:再建の後押しとなったのは、大河ドラマ「独眼竜政宗」の放送でした。放送をきっかけに、政宗の腹心である初代・片倉小十郎景綱の居城を見たいと多くの人が訪れましたが、「せっかく白石に来たけど、何もないね」という声を多くいただいたんです。
以前から「復元したいね」「せめて大手門がほしい」という声は上がっていましたが、実現には至らず。ドラマを契機に、「やっぱりお城がほしいね」と、白石城復元の気運が一気に高まりました。
ドラマ放送翌年の1988年には、白石城三階櫓の復元が白石市の政策として挙げられました。復元にあたってこだわったのが、“史実にもとづいた忠実な再建”です。発掘調査からはじまり、資料集めのため北海道や東京など全国各地を奔走。建築史学者の平井 聖先生や、歴史学者の我妻 建治先生にもご協力いただきました。
天守閣の復元は、石垣積みからはじまり、木組み、壁塗り、屋根の瓦葺き、と進んでいきました。石垣は、「野づら積み」といって石をほとんど加工しないで積み上げる方法。石垣の復元で野づら積みを採用したのは、全国でも初めてでした。さらに、打ち込みハギ、切り込みハギと精巧な石垣の積み方が用いられ、石積み職人が活躍しました。城好き、石垣好きの方からも好評です。
菊地:天守閣復元は、全国的にコンクリート造りが多いのですが、白石城は木造復元。
木材は、「良い木を使うと樹齢分は木が持つ」と国産にこだわりました。柱は吉野のヒノキ、床は青森のヒバ、梁は鳥取のものを使っています。また、北の二ノ門に使っている台湾ヒノキは、樹齢1,000年の非常に貴重なもの。神社や寺院の建築や修復を手がける、京都の宮大工によって、釘を使わない方法で復元しました。
立ちはだかる壁を乗り越え、白石城を誇れるシンボルに
大河ドラマを機に、復元への機運が高まり動き出した白石城の再建。一方で、“史実にもとづいた忠実な復元”に、総工費は膨らみました。復元をなんとしても実現させるため、白石市では「瓦一枚運動」などの施策を実施。さらに、地域総合整備事業債という補助率の高い起債が国に認められ、何とか復元の目処をつけることができたのです。
ーー木造復元をするにあたり、金銭面や地域の理解など苦労もあったのではないでしょうか?
菊地:当初は、コンクリート作りの復元を予定していました。総工費はコンクリート造りの約7億に対し、木造は約21億円。石垣にも職人技が必要です。
「復元にそんなにお金をかけてどうするんだ」という、厳しい意見もいただきました。
ーー厳しい意見もあった中で、どのように周囲の理解を得ながら実現させていったのでしょうか。
菊地:「私たちが作ったお城」という感覚をもってもらえるような取り組みを実施しました。そのひとつが「瓦一枚運動」。屋根に乗せる瓦を1枚1,000円、軒瓦を5,000円などで購入してもらったんです。さらに、伝統工法で使用する「栗石(ぐりいし)※」に、願いを書いてもらうイベントなども実施。市内外に支援を呼びかけました。
※栗石(ぐりいし)とは、基礎の下に敷く砕いた小さな石のこと。地面の上に敷いて地盤を固めるために用いる。地震が起きた際などに緩衝材の役割を果たし、石垣を崩れにくくする。
菊地:イベントを重ねて、白石城と市民の接点を増やすことで、「この地域にはこんな立派なお城があるんだ」と、地域へのプライドを醸成していくことが大切だと考えたんです。
この「プライドの醸成」を第1の柱として、3つの柱を立て、白石城の復元を押し進めました。第2の柱は、白石城を借景にイベントなどを行うことで「歴史と文化を合わせ持つ場」として地域に根付かせること。そして、第3の柱は「観光の誘客」です。
「白石城の再建によって、市民の気持ちが一つになれば」と、必死の思いでしたね。最終的に、一連のキャンペーンなどにより、個人や法人から1億円を超える寄付が集まりました。
ーー市民の気持ちが醸成され、寄付が集まってからは順調に進んで行ったのでしょうか。
菊地:すんなりとは進みませんでした。次に立ちはだかったのが、建築基準法の壁です。
白石城の高さは16.7メートル。当時、13メートル以上の木造建築は法律上禁じられていました。さらに白石城は、補強金具を使わない、日本古来の建築工法を用いた木造建築。木造部分だけでなく、土塗り壁の構造解析など、前例のない中で強度や耐震のためのさまざまな実験が行われました。
菊地:この建築基準法をクリアするのが本当に大変だった。「工作物」として復元すると、「内部に人を入れられない」などの問題があるんです。建築物としての基準をクリアするために、本当に多くの人が知恵を絞り、力を尽くしました。設計士や建設会社、職人、市役所職員が一丸となって、話し合いや資料づくりを行い、建設大臣特別認定を受けることができたのです。評価が通ったと聞いた時はみんなで喜びましたね。
1992年に復元が開始され、1995年3月に三階櫓、大手の一ノ門と二ノ門、土塀の復元工事が完了しました。
公開初日には、城を囲むほどの行列ができ、天守閣の見学は1時間半待ちに。ヘリコプターでその様子が撮影され、ニュースで報道されました。白石城は再びまちのシンボルとして確立され、脚光を浴びるようになったのです。
復元後は城好きの有名人が訪れたり、「鬼小十郎まつり」など、城を活かしたイベントも開催されるように。また、市内には「古典芸能伝承の館・碧水園」という能舞台と茶室を備えた施設があり、地元の子どもたちが能や日本舞踊、茶道などの伝統文化に触れる場となっています。碧水園の教室に通う子どもたちが、白石城を背景に日頃の練習の成果を披露するなど、さまざまな展開が広がっていきました。
菊地:復元後、順調に白石城を起点とした文化と歴史の輪が広がっていたのですが、2011年の東日本大震災で、壁の崩落など、1億円超の被害が発生。文化財ではないことから、補助金の対象外となり、市の財政や寄付金で復旧を行いました。
震災後に復旧したのですが、2021年2月と2022年3月の地震で、再び被害が出てしまいました。2022年秋には修復完了予定なので、まずはこの復元した城を、新しい姿にしていきたいですね。
――今後の展望を教えてください。
菊地:鬼小十郎まつりなど、コロナによって途絶えたイベントを復活させて、海外も視野に入れた誘客を図っていきたいですね。白石は、東京から新幹線で約2時間。仙台や福島、山形へも非常にアクセスの良い場所です。
コロナ以前の2019年には「城泊」も行ったんですよ。サンマリノ大使ご夫妻が、天守閣に宿泊し、居合体験やこけしの絵付など、白石を楽しんでくれました。
市民からは「天守に人を泊めるなんて」というご意見もいただきましたが、逆に捉えれば、それは「自分たちのお城」と意識が向いている証拠。城泊については、賛否両論でしたが、いずれにしても「自分の住んでいるまちの城」というプライドが育ってきているのだ、と感じましたね。
白石城は、歴史的にも要衝となってきた場所です。
一度、城が解体されて120年が経ち、復元されて。実際に城があるのとないのとでは、やはり市民の意識も違います。これまでは近隣の観光地に行くまでの通過点でしたが、白石城というシンボルを軸に、近隣地域とも連携しながら、体験や宿泊の選択肢として目を向けていただけるまちを目指していきたいですね。
全国各地から武将隊が集結、戦国系イベント「鬼小十郎まつり」
復元された白石城では毎年10月、二代目・片倉小十郎重長の武勇を今に伝える「鬼小十郎まつり」が開かれています。祭りのメインイベントは「道明寺の戦い」。真田幸村との決戦・大坂夏の陣を演劇や合戦などのシーンを交えて再現します。2008年に始まり、2022年で15回目を迎える白石市の秋の風物詩です。
「当初は手探り」「こんなに大きなイベントになるとは想定してなかった」ーーそう話すのは「鬼小十郎まつり」を企画運営する実行委員会の森建人会長と、道明寺部会会長の佐藤由佳さん。実行委員会は、地元の経営者層を中心とした立ち上げメンバーが部会長を務める5つの部会により構成されています。地域内外の人を巻き込み、熱狂させる「鬼小十郎まつり」は、どのようにはじまったのでしょうか。
――「鬼小十郎まつり」立ち上げの経緯と想いを教えてください。
佐藤:白石市の若手職員や私たち地元の経営者たちが集まった「白石市中心市街地の賑わいづくり研究会」の話し合いで、「秋に市外からもお客さんを呼べるような祭りができたら」という話が出たのがきっかけでした。
生まれも育ちも白石の私から見ていても、まちに元気がないんです。イベントの1日だけでも、人がワイワイ歩いていたら街の中の人の考え方も少しずつ変わっていくかもしれない。まちのにぎわいを作っていくために、何かできたら・・と考えたんです。
森:白石には、春祭り、夏祭りという大きなお祭りがありますが、秋は農業祭しかなかったんですね。白石市は、移動時の通過点になってしまうことが多い。そこで、秋に市外からもお客さんを呼べるような祭りができたらと。どんな内容にするかは決まっていませんでした。
ーーそこから、どうやってお祭りの内容を決めていったのでしょうか?
森:ヒントになったのは、これまで見かけなかった若い女性観光客でした。
ある時、観光客と思しき若い女性たちが複数人で歩いて、マンホールの釣り鐘印(片倉家の家紋)を撮影していたんです。それまで、市内を歩いているのはお年寄りが中心。最初は「なぜマンホールの釣り鐘印を?」なんて思っていたんです。
よくよく調べてみると「戦国BASARA」というゲームで、片倉小十郎がキャラクターとして登場していて。当時のゲーム内での小十郎はサブキャラ。操作はできないキャラクターだったんですが、伊達政宗とともに動く小十郎がかっこよく、ゆかりの地を知りたいと足を運んでくれていたのです。
佐藤:それをヒントに、「まずは小十郎に関するイベントにしてみよう」と企画しました。ちょうど、県とJRが連携して全国に打つ大型の観光キャンペーン「デスティネーションキャンペーン」も実施され、後押しになりました。
佐藤:「小十郎に関するイベント」という方向性は決まったものの、歴史系イベントの経験もお金もなかったので、初回は本当に手探りでした。テレビや各種媒体などを使ってイベントについて調べましたね。広報の仕方もわからないし、合戦で甲冑を着て戦う甲冑武者も人が足りず、今の市長や副市長、市役所職員、実行委員会会長の森さんも出演しました。
メインイベントである「道明寺の戦い」では、当日までに3回の練習を行うのですが、初年度の練習1回目は本当にどうしようかと頭を抱えるほど。練習を重ね、最終的には「よかったよ」とお客さんから言ってもらえて。好評でホッとしました。
森:「鬼小十郎まつり」を最初に実施した時は、2回目をやるなんて考えてなかったんです。でも、「まずはやろう」って。周囲の理解をえるのに苦労したり、大変さもありましたが、周りから好評だったことで、2回目につながりました。
真剣だからこそまた来たくなる 感動の「道明寺の戦い」
手探りの中はじまった「鬼小十郎まつり」。少しずつ輪が広がり、初回3,000人だった来場者も、今では1万人近くに。全国各地から来場し、リピーターも多いと言います。
――遠方からも足を運び、また来たくなる、その理由はなんでしょうか。
佐藤:初回のイベントを「おもしろかった」「よかった」と発信してくれた方がいたから、次につながったのだと思います。参加者は女性と男性が半分ずつ。歴史好きやBASARAのファンなどが多く、おもしろい人が多いのが特徴です。
「私これ好き」「私も」といった具合に、お互いの好きを認め合ってつながる。一年に一度の同窓会のよう。「みんなでひとつのものを作り上げることが楽しい」と、リピートにつながっているんじゃないかと思います。
ここまで祭りを続けてきて思うのは、出演する人が真剣に戦って「やりきった」「楽しかった」と感じると、その感動の輪が観る人にも広がっていくということ。祭りって、それが成功でしょう。
――イベントの実施に当たっては、まちの方の協力もあるのでしょうか?
佐藤:甲冑武者60人の着替えの場として、商店街の店に協力を依頼したこともあります。まちを元気にするために、イベント当日だけでも人の歩くにぎわいをつくりたいんですよね。武者隊として「道明寺の戦い」に出演する参加者は甲冑を着て、白石駅から白石城まで行列も行いました。
森:事前準備として、全部の店を回って、「明日こういうイベントやるから」と説明して。なかなかすべてのお店から理解を得るのが難しい部分もあるんですが、少しずつ協力いただいています。駅から白石城まで歩く時に応援してくれたり、途中からはスタンプラリーを同日開催したり。
佐藤:店も営業が優先なので、着替えの場所を提供してくれるという形。次に参加者がその店に「この間はありがとうございました」と、行った時に「よく来たね」と、ウェルカムな雰囲気になればと。その積み重ねで、いつかはまちが元気になるんじゃないかという期待もあります。
――大きく成長したイベント、今後について展望などはありますか?
森:私たちも年齢を重ねてきているので、若い人たちに祭りの運営を引き継いでいけたらと思います。祭りをきっかけに、移住をした人や祭り期間以外にも足を運んでくれる人も増えているんですよ。
一方で、経済が良くならないことには、こういう祭りも継続できません。ボランティアだけでは続かない。祭りをやることによって直接利益があがったり、自分の商売がうまくいくなど、持続可能な仕組みをつくらないと。少しずつ時代に合った形に変化させながら受け継いでいきたいですね。
佐藤:少しずつかもしれませんが、祭りをきっかけに、いつ来ても“ウェルカムな雰囲気”のある元気なまちにしていきたいですね。
白石城の復元から、秋の風物詩にまで成長した「鬼小十郎まつり」。それらに力を注いだのは、この地で生まれ育った人たちでした。
シビックプライドを醸成し、持続する地域へ。豊かな自然と歴史、文化を合わせ持つ「白石市」は、着実に未来へとつながる歩みが続いていくでしょう。