獲り尽くして消えたホタテ。どん底から日本一の漁獲量を誇る村への復活劇
猿払村プロジェクト
文:立花実咲 写真:原田啓介
「人間は神々と力を競うべきでない 人間は自然の摂理に従うべきだ」
この言葉は、オホーツク海をのぞめる道路沿いに建てられた「いさりの碑」に、刻まれています。
人口約2,700人の猿払村は、ホタテの名産地。平成11年には、ホタテの漁獲量が世界一に輝いたこともあります。
けれど、「猿払といえばホタテ」と広く認知されるようになるまでには、紆余曲折がありました。昭和30年代前半には、ホタテを獲りすぎた結果、まったくいなくなってしまったのです。
ホタテの水揚げ量、日本一
海の資源を枯渇させ背水の陣に陥ってから、ホタテの名産地と名を成すまで、どのようにして復活を遂げたのか。
猿払村漁業協同組合組合長・沖野平昭さん、専務理事の森豊昭さん、参事の木村将彦さんに、お話をうかがいました。
── 猿払に初めて来ましたが、以前から、ホタテが有名な村ということだけは知っていました。
沖野:毎年、水揚げ量は変わりますが、1万トン以下になることは、ほとんどありません。一番水揚げがあったのは、平成26年。約5万7,000トンで、年間の最多水揚げ量を更新しました。そのころは、ちょうど俺が総船団長をやっていたんだよね。
── 5万7,000トン……! ちょっと想像できない数字です。総船団長というのは、漁のリーダーということでしょうか。
沖野:そうです。毎回、34隻の船で漁に出るんだけど、その総責任者で3年に1回、変わるんです。時化(しけ)で漁に出るか出ないかを判断したり、漁師に指示をしたり。
── 猿払村で獲れたホタテは、その後どういう人たちのところへ届けられるのでしょうか。
森:ネット販売で購入いただく方も多いので、自社のECサイトに載せたり、ふるさと納税の返礼品としてお送りしたりしています。あとは、干し貝柱やソフト貝柱に加工して販売しているので、それらをお土産品として購入いただくことが多いですね。
村の産業をとり戻す!一念発起で再出発
── 「猿払村といえばホタテ」という認識が根づいたのは、いつごろのことなのでしょうか。
沖野:猿払では明治時代からホタテが獲れたみたいなんだけど、昭和38年ごろを境に、すっかりホタテがいなくなっちゃったんだよね。獲りすぎたんです。
1958年には、禁漁、つまり漁に出れなくなったから、漁獲量はゼロでした。
ホタテ以外にニシンや鮭も獲れたけど、生活していくにはまったく足りなかった。その状況下で、なんとかしようと奮闘したのが太田金一元組合長でした。
── 太田さんは、具体的に何をされたのか詳しく教えてください。
沖野:太田さんは、1961年に6代目の組合長に就任しました。当時は、組合員は182人。組合設立当初は、378人いましたから半減しています。
太田さんは、村や漁業組合の先頭に立って稚貝を放流してホタテを育てようと動きだしたんです。俺はまだ子どもだったから、その頃のことはあんまり覚えていないけど、3年間、海でホタテを育てて獲れる確証はないから、反対もあったと思う。でも、何かしないと村がダメになってしまうから、最終的には太田さんにみんな協力したと聞いてます。
沖野:10年のスパンで漁獲量を計画して、稚貝を放流し始めたのが1971年。当時の税収だった約4,000万円の、2分の1を投じて稚貝を購入したそうです。けど、組合員は、そのころ65人くらい。仕事がないから、どんどん村から出て行っちゃうんだよね。
── それくらい、ホタテも他の水産物も獲れなくなって逼迫していたということですね。
沖野:1971年に放流した稚貝を、1974年に初めて水揚げしました。獲れたのは、1,674トン。稚貝の大規模放流事業が始まってから、地道に海をきれいにしたり、ヒトデとかホタテの天敵を駆除したりして、少しずつ環境をととのえていったの。大きく伸びたのは、1978年。漁獲量が一気に16,438トンまで増えました。
── たった4年で10倍に! どうしてそこまで飛躍的に増えたんでしょうか。
沖野:天候とか、いろんな要因があると思うなあ。ホタテは養殖ではないから、稚貝を放流したら、あとは自然の影響に任せるしかないんです。でも、その年以降は安定して1万トン以上獲れ続けています。
人口の1割以上が漁業従事者
沖野:1万トンの水揚げができるようになってから、村に還元できるものが増えたから、やっと「猿払といえばホタテ」と言えるほどの産業になったんだよね。ホタテが獲れなかった頃に比べると、人口の減りも少ないし。
── 漁業に関わっている方は、どれくらいいらっしゃるんでしょうか。
森:組合の職員は56人です。所有している加工所が2つあって、そこで勤めている方々を合わせると、100人くらいになります。漁師は270人。村には、他にもホタテの加工業者さんが5社ありますから、本当に多くの方が漁業に携わっています。
── 産業として盤石な印象を受けますが、これから組合として挑戦していきたいことは、何かありますか。
森:うちのホタテじゃなきゃダメだって言ってくださる方が、全国にたくさんいらっしゃるんです。逆指名ですね。今年はコロナの影響もあるけど、おかげさまでホタテの売れゆきは順調です。
木村:猿払のホタテは、他の町で獲れるホタテより、味が濃いと思います。貝柱の高さもあって、身が詰まっています。生で食べるとより、その味を感じることができると思いますよ。
沖野:1年間の出漁日数は150日〜160日だけど、ホタテは漁獲量が計画しやすいから、雇用が安定しています。だから漁師の後継もいるし、村に人が残るんだと思う。まずは、その基盤を守ること。猿払は、一度どん底を見ているからね。
冒頭にご紹介した「いさりの碑」には、こんな一節もあります。
「海扇と呼ばれた帆立貝は海の底に幾層にも重なり合っているのではないかと錯覚を起こさせる位棲息していた しかし之等の生物の運命も貪欲な人間の前には所詮は滅亡の運命が待ち受けていた」
資源は有限であることを痛感したからこそ、自然にあらがわず、共存する道を選んだ猿払村。猿払のホタテの漁獲量と品質が、常にトップクラスであり続けるのは、そうした学びと自然に対する姿勢が、受け継がれているからなのです。