それでもこの地で生きていく。カネフク浜形水産が残す出逢いの軌跡
長万部町事業者の思い
文:本間 幸乃 写真:斉藤 玲子
長万部の夏の風物詩といえば、毛がに漁。噴火湾で獲れる毛がには、町の主要産業を支える名物のひとつです。
かつて交通の要衝として栄えていた長万部の歴史とともに歩んできたという、カネフク浜形水産。時代の波に乗り、ときにのまれながらも前進し続けてきた、その軌跡をたどります。
創業から約50年。獲れたての毛がにのおいしさを父の代から
札幌方面から国道5号線を走ると見えてくる「かに」と書かれた赤い看板が、カネフク浜形水産の目印です。入り口に近づくにつれて、茹でた毛がにのおいしそうな匂いが漂ってきます。
取材日は年に一度開催される「毛がにまつり」の翌週と、繁忙期の余韻が残る時期。店内で手早く商品の箱詰めをしながら「好きなだけ見ていって」と温かく迎えてくれたのは、代表の濱形康之さん。まずはカネフク浜形水産の歴史について伺います。
ーーカネフク浜形水産の創業からこれまでの歩みを教えてください。
濱形:創業したのは私の父。今年で商売を始めて50年ほどになるんじゃないかな。
もともとは祖父が漁師で、長男である父が手伝っていたんだけど、そのうち父は結核を患ってしまってね。19歳〜25歳頃まで入退院を繰り返して、体力的に漁師を続けることが難しくなってしまったんだ。漁を辞めて、代わりに始めたのが市場から仕入れた海産物の販売。これが浜形水産の始まりだと聞いているよ。
濱形:私はまだ子どもだったから、創業当時のことはよく分からないけど、最初は毛がにだけではなく、色んな海産物を扱っていたらしい。しばらくすると噴火湾で毛がにがたくさん獲れるようになって、周囲の盛り上がりとともに茹でた毛がにや「かにめし」を売り始めたのが、今の商売に至った経緯みたいだね。
ーー康之さんはいつからこの仕事に?
濱形:19歳からだよ。高校まで長万部で過ごした後、札幌に進学したその年に母が病気で亡くなってね。元気をなくしていた父が心配だったこともあって、翌年に学校を辞めて長万部に戻ってきたんだ。
私は次男だから、小さい頃から家業を継ぐ気は全くなかったんだよ。でも母が亡くなった時に、これからどうするのか兄に尋ねたら「自分にはできない」っていうから、「じゃあ俺がやるわ」って。
ーーこのお店もお父様から引き継いだのですか?
濱形:この店は私の代から。それまでは、町内だけど今とは別の場所で商売をしていてね。長万部バイパス※の開通に合わせて、もともとこの地に持っていた加工場と併設する形で、離れていた店舗を移転したの。
「お食事処濱乃家」を始めたのも、移転がきっかけ。おいしい「かにめし」を店舗でも食べてほしいし、食事から毛がにの購入につながればと思ってね。
※長万部バイパスとは、1996年に開通した、国道5号線を延長してつくられたバイパス道路。市街地の混雑緩和のために路線が整備された。
濱形:でもね、父にはこの店を見せられなかったんだ。ずっと病気で入院していたんだけど、オープン日である平成8年(1996年)8月30日に、亡くなったの。
偶然と言えば偶然なんだけど、「もう安心して店を任せられる」と父が思ってくれたのかもしれないね。
高速道路の光と影。荒波の中で心を繋ぎとめた「ふたつの自信」
カネフク浜形水産が移転オープンした翌年の1997年、道央自動車道に長万部ICが開通しました。主要幹線道路である国道5号線と高速道路をつなぐ「長万部バイパス」は、町の基幹的な道路として大きな役割を果たします。
しかしその5年後、長万部IC〜国縫(くんぬい)ICが開通。2006年には国縫IC〜八雲(やくも)ICが開通し、長万部ICの利用は減少の一途をたどります。その影響は浜形水産にとっても大きいものでした。
ーー「ここが人生のターニングポイントだった」という出来事はありますか?
濱形:うーん‥高速道路かな。長万部ICが開通した頃は、高速道路から降りてきた人と、国道5号線を使う人、2つのルートからお客さんが来ていたんだよね。当時の売り上げは、今思うと相当なものだったよ。
ところがその後、高速道路が伸びていくにつれて、長万部では降りる人が減ってね。当然お客さんも減っていくよね。
当時はネット販売が普及していなかったから、対面販売でいかにリピーターを増やすかが肝だった時代。減った売り上げを取り戻すのは、どう足掻いても難しかった。自分の力だけではどうにもできなかったね。
濱形:厳しい状況が数年続いた中で、4人雇っていた従業員のうち若い1人を残して、辞めてもらったんだ。「このままじゃ共倒れになっちゃう。申し訳ないけど、他探してくれねぇか」って。丸1年考えて出した結論だった。みんな状況を理解してくれて、受け入れてくれたよ。
濱形:働き方をガラッと変えたのも、この出来事がきっかけ。今は基本的に、女房と2人で店を切り盛りしてるんだよ。人手が必要な週末は、学生のアルバイトに助けてもらってね。体力的には大変なんだけど、今のスタイルが自分には合ってる。
従業員の解雇は苦しい決断だったけど、体制を縮小した今は「どうしよう、潰れる」っていう不安を感じることはなくなった。
だからまぁ、なんとかなるもんだよ。
ーー私だったら「なんとかなる」とは到底言えない状況です。どうして心が折れそうな状況を乗り越えられたのでしょう?
濱形:自信があったんだよ。一つは「できることはやってきた」という自信。もう一つは、先代が残してくれたお客さんとの繋がりからくる自信。先代から引き継いで、大切に付き合ってきたお客さんとの信頼関係があるからね。「浜形さんの毛がになら間違いない」って、30年以上ついてきてくれたお客さんがいたから乗り越えられた。
ーー康之さんが選んで、茹でた毛がにだからこそほしい、という方々がいらっしゃるのですね。「浜形水産ならでは」の茹で方など、商品へのこだわりはありますか?
濱形:ポリシーは、なるべく冷蔵で送ること。夏の暑い時期とか、冷凍便の希望があればもちろん対応はするけど、おすすめは冷蔵便。茹でたてのおいしさを保つことができるからね。
茹で方だって特別なことをしているわけじゃないんだよ。あえてこだわりとして挙げるなら、毛がにからでる「出汁」で茹でることだね。
濱形:毛がには1日に複数回茹でるんだけど、2回目は朝一に茹でたときの出汁を加えて茹でるの。3回目は2回目の出汁で・・と、回数を重ねると出汁が濃くなる分、おいしくなるというわけ。茹で汁は1日で使い切り。
塩加減は一定量の水に対して、お椀ですり切り一杯。これは自分の舌で見つけた味。試行錯誤する中で「ちょうどいいお椀があった」とひらめいてね。計って茹でてみたらドンピシャだったというわけさ。
食という贅沢をとおして、人と関わり続けたい
主要幹線道路の建設と、高速道路の拡張。時代のうねりの中で、カネフク浜形水産は関わる人との信頼関係を軸に、進み続けてきました。
しかし、近年では毛がにの不漁や後継者不足と、水産業には厳しい状態が続いています。
ーー毛がに漁を取り巻く環境が年々厳しくなる中で、何か考えていることはありますか?
濱形:毛がにが少なくなっても、ゼロになることはないと思っているよ。例えばこれからも毛がにが減り続けて、価格がさらに高騰したとする。もしそうなっても、納得してもらえる商品を出す自信はあるし、実際に昔も今もずっと買ってくれるお客さんがいるからね。漁が減ることに対する恐怖は、そこまで感じていないかな。
とはいえ、だんだん水揚げが少なくなっているのは事実だから、先のことで気持ちが揺らぐこともあるよ。
でも、この先どんなことがあっても、長万部で人生を終えるってことは決めてるんだ。一人じゃここまで続けられなかったからね。
先代からの繋がりや、長万部という町での繋がりがあるから、その時、その時で全力を尽くすことができるんだ。
「町をなんとかしようなんておこがましいよ。でも、自分だけ良ければいいなんてことは全く思わない」と、長万部への思いを語る康之さん。
この地で商売を営むことの喜びについて伺うと、迷いのない答えが返ってきました。
濱形:人と会うことだね。喜びはそこにしかないと言っても良いくらい。
お客さんの中には商売をしている人もいるから、ときには、かにとの「物々交換」を提案することもあるんだよ。全国から送ってもらったおいしいものを、町の会食なんかで、みんなで食べるのが楽しいんだ。
自分にとって一番の贅沢は、食を楽しむこと。贅沢な仕事に携わっていることに誇りを持ってるよ。
ーー最後に、浜形水産としての今後の夢はありますか?
濱形:この「食」という商売をとおして、まだできることがあると思ってる。まだまだいろんなお客さんと出会いたいしね。
人と人が顔を合わせて、話ができることが楽しいんだよ。「着いた?」「食べた?」なんて言い合えることが、何より嬉しいことなんだ。
これまで悔しい、苦しい思いもたくさんしたけど、それでも喜びの方がずっと大きかった。だから耐えてこれた。
そしてやっぱり、喜びは「人」からなんだよね。傷つくことを恐れずに人と関わり続けていたら、きっと喜びに溢れる人生になる。俺はそう思うよ。
どんなときも、人との関わりから生まれる幸せを原動力に進んできた、カネフク浜形水産。変わり続ける時代の中でも力強く、まっすぐに。康之さんはこれからも、出逢いの軌跡を描き続けます。
店舗情報
カネフク浜形水産 お食事処濱乃家
〒049-3521
北海道山越郡長万部町字長万部17-15
電話:01377-2-5651
FAX:01377-2-3276