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大好物を守る。曲がりくねっても歩むサン・ミート木村という道

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大好物を守る。曲がりくねっても歩むサン・ミート木村という道

長万部町事業者の思い

文:高橋さやか 写真:小林大起

誰かに自慢したくなるような、大切な想い出の味はありますか?
祖母がつくってくれたあたたかい豚汁。兄弟みんなで包んだ餃子。休日に父がつくってくれた焼きそば・・きっと誰しも懐かしい思い出とともにある、大好きな味があるのではないでしょうか。
「小学生の頃、学校から帰ってはサン・ミートのお肉を焼いて食べていたんです。大好物だった」と語るサン・ミート木村の店長、木村充さん。大好物が守るべき存在になるまでの紆余曲折の道のりをうかがいました。

長万部にはサン・ミートがある

サン・ミート木村は、長万部駅から5分ほど歩いたところにあります。真っ赤な屋根にくっきりと書かれた「肉」の文字。お店の前には、のぼりがたなびいています。おそるおそるお店の扉を開けると、中から笑顔の木村店長が迎えてくれました。まずは、これまでの歩みについてお話を聞きます。

ーー「サン・ミート木村」は、もともとご実家だったのでしょうか?

木村
:そうですね。サン・ミート木村になったのは、僕が小学校2年の頃。経緯については、僕も子どもだったのでそこまで詳しくは覚えていないんですが、サン・ミート木村の前にヒサクラ精肉店というお店があって、うちの母が働いていました。
恐らく当時のオーナーが辞めることになったのをきっかけに、母が継いだという流れです。
最初は建物も場所も隣の土地でしたが、僕が小学校2年の時に、ここの建物に移ってきてサン・ミート木村に。ちょうどそのタイミングで、国鉄職員だった父が民営化に伴ってリストラにあって。一緒にお店をやることになったと記憶しています。

ーー木村店長はその頃から、サン・ミートを継ごうと?

木村
:いえいえ。僕は次男だったのでお店を継ぐ予定もなく、高校卒業して自衛隊員になったんです。自衛隊でも、「サン・ミートって長万部にあって」なんて、話したりして。自分の自慢っていうか、誇りでしたね。結婚する時も「商売だけは絶対しない」って、カミさんと約束してたんですよ。ご両親に結婚の挨拶をしに行った時も「絶対商売はしない。兄がいるから大丈夫です」って。

一度スーパーに就職した兄が帰ってきて、ここを継いだんですが・・まぁ〜ここから色々あって。気づいたらお店を支配するようになったんですよね。その状況に父も母も参ってしまって。

ある時、僕抜きでカミさんが僕の両親と一緒にいたときに、夜遅くに突然電話があったんです。「みっちゃんのお父さん、隣の部屋で泣いてるんだけど」って。「こんなはずじゃなかったって、子どもみたいに泣いてる」って。あ、サン・ミートの状況はまともじゃないと思ってたけど、ここまでかって。

翌日、僕が何も知らないふりをして迎えに行ったんですけど、車中で母が「このままじゃ、あんたの好きなサン・ミートがなくなるよ」って。その言葉で、自分が帰ってなんとかしないといけない状況なんだと。それまでは、気づかないふりしてたんですね、今思うと。

ーーそこからサン・ミートを継ぐことにしたのでしょうか?

木村
:そうですね。自分の誇りであり大好きなサン・ミートが崩壊してゆくのを黙って見てられない、立て直したくて。兄が手に負えないくらい好きなようにやっているけど、両親はそれを僕に直接は言えないし、「戻ってきて欲しい」とも言い出せなかった。だから、僕自身も心の中では「サンミート=家族をなんとかしなちゃ」と思いながらも、普通のふりして、気づかないふりして戻りました。
「俺は自衛官だったのにこんなところに来ちゃった」って態度でね。

両親は兄との経験が恐怖だったこともあったんですかね、サン・ミートの従業員になった僕ら夫婦を、押さえつけて押さえつけて。最初の1年は修行みたいな感じで、休みなしで働いてましたね。カミさんには可哀想なことしたなって。結婚当初の約束を一方的に破られて、突然連れてこられて、やりたくもない仕事して。

断ち切りたい負の連鎖

自衛隊員という安定した職を捨て、自分が愛するサン・ミートを立て直そうと戻ってきた木村店長。胸に秘めたアツい想いとは裏腹に、お店の内部では負の連鎖がつづいていたと語ります。

ーー戻ったものの、ご両親の圧力もあったようですが、どうやってお店を立て直していったのでしょう?

木村
:僕が戻ってきた時は、まだ兄がいたんですけど、一緒にいたのは3ヶ月くらい。3ヶ月で店の全てを教えてもらえるような、甘い世界じゃないし。手探りで。32歳で帰ってきて、今46歳なんで14年間独学。父に聞いても、兄が作った商品のことは分からないし。なんていうか、当時は楽しんでやっていたんでしょうけど、今思うとあの頃には戻りたくない。地獄でしたね。

商品をレシピ化するのがまず大変。それまでは、僕には到底できませんが、自分の中にある勘や感覚だけで商品を作り上げる「勘ピューター・ベロメーター」が多用される職人技で製造されていました。原材料表示なども少しずつ厳しくなり、それまで通り作る訳にはいかず、レシピを数値化して、安定した商品を提供していけるように改善していきました。
それまでは、見た目だけで調味料を計測してたのを、時間をおいて3回くらい作ってもらったりして。平均をとることから地道に進めて、何とか安定した商品を作ることができるようになりましたね。

長く続くお店として大切なのって、「変わったね」「美味しくなったね」じゃない。「変わらないね」って言われること。そのために変えなきゃいけないことが、沢山ありました。

ーーレシピ化以外に、変えたことや大変だったことは?

木村
:そうですね。誰も自分についてきてくれなかった時期かな。僕が変えたいこと、良いと思うことに、意見の食い違う両親=役員と、彼らに育てられた従業員の存在。

夏の繁忙期に「欠品は恥。一つでも多く商品を作らないとダメだ」と考える木村店長は、閉店後も工場で作業していてたんです。でも、「作れる範囲で作って、売切れたらしょうがない」と考える親世代は、みんな「そこまで作る必要ない」って。

仕方ないから、一人で作りますよね。それに対して母が「個人プレーがすぎる」って言ったんですよ。「あんたは個人プレーがすぎる。早く帰りたいのに商品できてたら、パートさんはパックせざるを得ない」って。「じゃあ品切れ起こしたらどうするの」って言ったら「それは別の話」みたいな。

さすがに僕も苛立って、母に「個人プレーがすぎるって言うんなら手伝えよ」って言ったんですよ。それを父が聞いてて「お前なんだその態度」ってキレ始めて。イライラ通り越して、「あ、終わったな」って思いました。その頃が僕のどん底のピークでしたね。いまだに思い出すだけでもショックで。自分が自衛隊を辞める一番のきっかけは父でしたからね。

カミさんが産休に入ってて、周り見たら誰もついてこなくて。朝7時作業開始で帰るの23時。在庫を一生懸命一人で貯めて。カミさんが店にきたときに、「オレやる詐欺」って言われてるよって聞いたときは、ほんと辛かったですね。

ーー逃げ出したくなりませんでしたか?もうやってらんねぇ、って?

木村
:うーん。この場から逃げ出そうという選択肢は無くて、やってらんねぇっていうよりは、彼らがキレてる理由が分かんなくて。何言ってるんだろう?って。
世代が変われば考え方も違うのは当たり前の話ですが、考え方の違いは壁でしたね。

社長像は人それぞれですが、現場主義の僕にとって父の社長としての在り方は、反面教師になってたんでしょうね。父は最前線で現場を引っ張るタイプではなく、後ろで全体を見渡して指示を出す立ち位置。僕の場合はこの仕事って、現場離れたらもう終わりだと考えるタイプで。だから何歳になっても、現場に立っていたい。

ボスではなくリーダーとして

世代間の価値観や考え方のちがい、さまざまな壁にも屈せず孤独な戦いをつづけた木村店長。今では仕事も従業員との関係も、充実の日々を送っていると言います。

ーー地獄の日々から充実の日々へは、どうやって変化していったんでしょう?

木村
:そうですね。バイト雇い始めたのは大きいかな。町内の学生が「バイトないですか」って。もう大歓迎でしたね。

若い人ってSNSとかやってるので、晩飯に賄い飯として用意した肉の写真ガンガン上げてもらって。バイトの子が好きな音楽を工場でかけて、仕事を楽しんでもらえる環境にしましたね。やることやって、手を止めなきゃ良いよって。バイトの子はすごい喜んで「神!」って言ってた。笑

サン・ミートは、バイトに頼らざるえない状況だったから。できるだけ長く働いてもらえるように、喜ばせようと思って。
課外活動?で、黒松内に行って、スノーモービルでバナナボートに乗って、肉食べて温泉入って帰ってくる、みたいなのもやりましたね。辞める時には色紙くれてね。もう3年以上経つけど、いまだに東京行ったら、元アルバイトが連絡くれて。彼らにはホント支えられましたし、今もバイトの子達の力は大きいです。

木村:あと大きな変化は、コロナで500万円分の在庫を抱えた時ですね。ブログとSNSを駆使して注文集めて、最終的に在庫をきれいに捌いたんです。それまでは両親が「ああしないとダメ。こうした方が良い」と忠告や助言をくれましたが、それ以来そんなことがなくなりましたね。
あの出来事はいまだに伝説的。

ーーわりと最近まで、ご両親の存在感は大きかったんですね。

木村
:ガラッと風向きが変わったのは、ここ一年ですね。
僕、この前泣いたんですよ。ジンギスカン食って「幸せだな〜」って。笑
パートさんと調理や商品開発してくれてる人と3人で、肉焼いて食べてたんですよ。そしたら、ふいに「幸せだなぁ」って。

今は管理能力や販売能力が上がって、特に指示しなくてもみんなが動いてくれるし、必要な情報は共有してくれて。「聞いてないからやってません」って言い訳を聞くことも、なくなりました。組織ってこうだよなぁって、気づいたら昼から泣いてた。笑

昔はね、誰かが誰かの敵で。今は全員笑ってる。これだよって。
楽しいです、今。仕事がすごく。

上昇志向も現状維持も、楽しんだもの勝ち

今すごく仕事が楽しいと語る木村店長。軌道に乗ったサン・ミートは、これからどんな未来へ向かっていくのでしょうか。

ーーサン・ミートをこれからどうしていきたいですか?

木村
:そうですね。地獄の時は、良い状況にしようと努力するじゃないですか。なったらなったでね、怖さを感じる部分もあって。今は年中忙しくて、それを夢見てたはずなんだけど。自分たちの手の届く範囲におさめた方が安心なんじゃないかって。とはいえ夢が叶ったり、目標を達成した瞬間には次の目標が出てくるし、今もやりたい事はたくさんあります。

人材1人確保するのも困難な何年か前までは、「来年はこうしたい」って目標が常にあったんです。でもある時、ふと気づいて。僕たちは今、優秀な人材に恵まれて、予想をはるかに超えた成果をあげられている現実があるんだって。その時から「現状維持できただけでも奇跡的」って思ったんですよね。不思議なことに、今は僕じゃなくて従業員がどんどん成長していって、売り上げも上げてくれて、管理能力も上がって。個人の能力とサン・ミート木村の組織力を実感しています。

それまでは、「上を見なくなったらもう終わり」とも思ったけど、上ばかり見てもキャパシティオーバーというか。今の現状でいい線いってるような気がして。何年か前から、僕の目標は現状維持になりました。

ガンガンやって会社をデカくしてる人もいるけど、この町の人口では現実的ではないし、それが正解なのかっていったらまた別で。だから、うーん、楽しけりゃいいんじゃないですか。正解はないって言うけど、楽しいのが正解なのかな。

ーー木村店長にとって「サン・ミート木村」ってどんな存在ですか?

木村
:子どもの頃はもう、大好物。学校から帰ってきたら、フライパン持って店に行くんですよね。当時は計り売りしかなかったから、計り売りのホルモンを自分で焼いて食べるくらい、大好物。高校卒業して自衛隊行ったら自分の誇りだった。

今は、そうですね。サン・ミートがなかったら会ってない人も沢山いるし、行けなかったところも沢山ある。だから僕を色んなところに連れてってくれるような存在ですかね。

その時の自分によって変化していくんですよ。離れていた時は、ただの自慢の材料でしかなかったけど。今は大好物で、自慢で、っていうのはあるんだけど、意味合いがどんどん変わってきて。守っていく存在でもある。

サン・ミートの木村店長で、「ホント良かったな」って今は思ってます。

お客様のお誕生日のために考案したという、ラム・ローズ。薄切りのしゃぶしゃぶ用ラム肉を薔薇に見立ててラッピングしている。
お客様のお誕生日のために考案したという、ラム・ローズ。薄切りのしゃぶしゃぶ用ラム肉を薔薇に見立ててラッピングしている。

取材の終わりに「あぁ、なんか今日見えた気がするな」と、晴れ晴れした表情で話す木村店長の姿が印象的でした。木村店長の夢は、人種や国境を超えて木村店長の仕事で関わる人みんなを幸せにすることだそう。食べる人が幸せそうにお肉を口にする姿を想像しながら、ひとつひとつ丁寧に作られるというサン・ミート木村の商品。楽しさと幸せがつまった味は、あなたの未来の大好物になるかもしれません。

店舗情報

サン・ミート木村
〒049-3521 
北海道山越郡長万部町長万部86−1
TEL: 01377-2-4416

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