ニセコ町産酒米100%の日本酒「蔵人衆」 未知の酒米作りから特産品として輝き磨かれるまで。
ニセコ町事業者の想い
文:浅利 遥 写真:斉藤 玲子
新たに開かれたまちの姿と、昔と変わらないままの豊かな自然が混在するニセコの風景は、訪れるたびに心を打たれます。ニセコの観光地から離れた、緑が茂る静かな場所。2004年、この地でニセコ町産酒米100%で造った日本酒「蔵人衆」が誕生しました。
2022年現在、「蔵人衆」の酒米を作るのは、ニセコ酒米生産部会に属する5名の生産者。1999年に町をあげて始まった酒米作りは、世代をこえて受け継がれています。
類なき、ニセコ町らしい酒米に辿り着くまで
美味しい日本酒は良質なお米から。北海道の酒米生産が珍しかった1998年、道内で初めて「初雫」という酒米品種が誕生します。その翌年、ニセコ町で酒米栽培がスタート。町で最初に作付けをしたのが、千田さんの先代でした。
まずはニセコの酒米生産について、ニセコ酒米生産部会会長の千田 勝也さんとニセコ町役場農政課の境 真二さんにお話しを伺います。
ーー当時珍しかったニセコでの酒米作りは、どのように始まったのでしょう?
千田:北海道で酒米の研究が進んでいた1990年代頃、品種改良されたなかに、特別粒の大きい「初雫」という品種ができました。吟醸や大吟醸の精米に耐えられる品種だろうということで、父の代から作付けが始まったんですよ。当時は種も少なくて、手植えでスタートしたと父から聞いています。僕はまだ高校生でしたね。
周りで酒米栽培をしている農家がいなかったので、父なりに葛藤もあったそうです。「誰も買ってくれなかったら、作る意味ないんじゃないか」って。だけど、役場の方から「酒米を買ってくれるところは探してあるから」という話があって、その出荷先というのが、小樽の田中酒造だったんです。
境:田中酒造も「道産酒米で日本酒を作りたい」と、後志管内で酒米を探していたそうで。タイミング良く双方の想いが繋がって、町産酒米を使った日本酒作りへの取り組みが始まりました。
ーー地酒作りの土台には、同じ想いを抱いた生産者と田中酒造との出会いがあったんですね。
千田:父が始めた当時から田中酒造は目をかけてくれましたね。「北海道の酒米だけで酒が作れる時代が来る」と先見の明を持って、うちの酒米を買ってくれたんじゃないかなと思っています。
ーーそもそも、酒米と食用米で栽培方法にはどのような違いがあるのでしょう?
千田:苗を育てる段階から違います。酒米は食用米より粒が大きいので、生育に差が出やすいんです。米粒の中心には「心白」という白い芯のようなものがあります。その心白に亀裂が入らないよう、食用米より時間をかけて乾燥させたり、コンバイン(収穫機)で激しく刈らないように気をつかっています。それによって、雑味の少ないすっきりした味わいになるんです。
ーー繊細なんですね。酒米栽培をする中で、最も気をつかう工程は?
千田:やっぱり、苗を育てる工程かな。酒米に限ったことじゃないけど、よく「苗で7割」って言葉があって、苗の状態で田植え後の育ち方が決まるので、特に気をつかいますね。なるべく芽が揃って出るように、温度を適宜変えています。
それと、発芽率が低いんですよ。通常のうるち米だとほとんど発芽しますが、酒米の場合、1割は発芽しないと思った方がいい。今は解消されたけど、栽培方法に悩む時期もありました。
ーー栽培方法で抱えていた悩みは、どのように解消できたんですか?
千田:偶然訪れた中古農機展示会で、良い出会いがあったんですよね。田植え機を取り扱う業者さんと話す中で、「やり方なんだよ」って教えていただいて。機械じゃなくて、扱う人間側の問題だった。笑
例えば、芽がそろって出ないのは、温度調節の仕方に問題があるだとか。光や水分、気温差で籾が膨らんだり縮んだりするから、冷えた状態で乾燥機に入れるとか。酒米の場合は、よく水分を飛ばして、縮むまで乾かすとか。いままでなかった発想に気づけた時は「わ〜そうか!」と嬉しくなりました。
ーーこの地区では酒米生産の前例がない分、独自の視点でニセコに適した酒米の栽培法を築いてこられたのですね。
千田:ニセコは他の酒米生産地と比べたら面積も小さいし、農家も少ない。となると、出回る情報も少ないじゃないですか。当初は、分厚い作物の栽培マニュアルを参考にしていたんですが、なかなか上手くいかなかなくて。だから、町外に出向いた時に話を聞いたり、役場の紹介で酒米生産者と情報交換をして、情報や技術を取り入れるようにしています。小さな枠にとらわれず、いろんなところから得たものが蓄積されて今があると思います。
志の輪から生まれた、町の特産品「蔵人衆」
ニセコの風土に適した酒米作り。次第に「酒米で一緒に何かを作ろう」と志を抱く人々の輪が広がり、ニセコ産酒米100%使用の日本酒「蔵人衆」の誕生へと繋がります。
ーー酒米を作っていく中で、どのようにして「蔵人衆」は生まれたのでしょうか?
千田:最初は一軒だけでしたが、徐々に酒米を生産する農家が増えていく中で、「ニセコの酒米を生かした特産品が作れないか」という思いが強まっていったんです。
特産品に使われる酒米として「ニセコの風土に合う品種はどんなものか」と模索して。「初雫」の後にできた「吟風」という酒米品種を栽培していた時期もあったんですが、冷害で、うまく育たないこともあったんですね。
そんな時に、出会ったのが「彗星」という品種でした。寒さにも耐えられて、タンパク質の含有量も低く、収量も安定的。「これならニセコの気候にも合うんじゃないか」ってことで、栽培してみたらうまくいった。「よし、これだ!」と手応えを感じて、商品化が進んでいきました。
ーー商品開発においては、町の協力もあったのでしょうか?
境:「大吟醸ニセコ蔵人衆」が2004年に設立され、商工会、JAようてい、役場も協力する形で地域の特産品化が進んでいきました。みんなで、日本酒の香味や商品名、ラベルなどを考えましたね。「蔵人衆」という名は、お酒に関わる人「蔵人」と、人との繋がり「衆」から地域活性化へ寄与していこうとの思いが込められています。今でこそ、ニセコを代表する特産品は色々ありますけど、当時にしては珍しい取り組みだったと思います。
千田:「蔵人衆」の製造が始まったのを機に、酒米栽培に加わる米農家が集って「酒米生産部会」も結成されました。米農家としては「どうにか知名度を上げたい」という想いがあったんです。結成当初から採算が合わなくても、「ニセコの米作りのイメージアップに繋がるような取り組みをしよう」という思いを持った人たちが集まっています。
ーー実際に、日本酒造りがはじまって気づいたことや心がけていることはありますか?
千田:複数の農家で同一品種の酒米を栽培しているので、畑によって少なからず生育に差が出てしまうんですよね。過去には、田中酒造から「同じニセコ米なのに、毎回中身が違う」という指摘を受けたことがありまして。
当時の会長が色々調べる中で、愛別町の農業法人が手がける酒米は、どれも製品が揃ってるという話を聞きつけて。実際に愛別町を訪ねて研修をさせていただきました。
研修先の農業法人では、それぞれの田んぼで出来た酒米を一つに混ぜて、出荷していたんですよね。すると中身が全て揃うわけです。今はそこで教わったことを生かして、ばらつきが出ないように心がけています。
ーー複数農家による栽培だからこそ、工夫も必要だったんですね。そうして出来た酒米が「蔵人衆」というかたちになって、どのように広まっていったのでしょう?
境:様々な分野の方々と力を合わせて、最初に完成した「ニセコ町産酒米100%の特別純米酒」は、全国新酒鑑評会* で高く評価していただきました。リリースした翌年の2006年から3年連続で金賞を受賞。その後も数多くの賞をいただき、町民や観光客の方々にも、ニセコ町での酒米栽培や「蔵人衆」の存在を徐々に知ってもらえるようになりました。2021年には、新たに純米大吟醸が発売されて、製品ラインナップも豊富になっています。
ーー全国規模の鑑評会でも高く評価された「蔵人衆」。どんな味わいなのか気になります。
境:ニセコは観光地ということもあり、普段飲まない人でも気軽に日本酒を手にとってもらえるように、「飲みやすさ」が一つのテーマになっています。辛口でフルーティーな味わい。町内会で出したり、遠方からお越しいただく方への手土産として渡すこともあるのですが、「飲みやすい」と言っていただけますね。
目まぐるしい変動のなかで問われる、在るべき姿
千田さんが酒米作りに携わる中で苦境に直面した時期を訪ねると、一瞬、スーっと時が止まったような静寂な時間が流れました。そのあとに続けて、「やっぱり、今。今かな」と神妙な面持ちで言葉を返す千田さん。さまざまな状況が複雑に交差している今、どう立ち向かうのかが問われています。
千田:コロナ禍に入ってから、なんだろう・・。以前は、生産農家数が足りなくて、どこまで作れるかっていう状況だったんです。だけどここ数年は、頑張って作ろうと思っても、生産量を抑える方針が続いているから、先行きが見えない感じはありますね。
日本人の食卓では、毎日のようにお米が食べられているから、消費量ってコロナ禍以前と変わらないと感じるかもしれない。だけど実際のところは、コロナ禍以前の方が圧倒的にお米の消費量が多かった。インバウンド需要もあって、海外からの観光客もお米を食べていたんですよね。今は、お米が余ってしまってる状況です。
ーー国際色豊かなニセコだからこそ、インバウンド需要の変化を顕著に感じられるというのもあったのでしょうか?
千田:いや、ニセコだからというよりかは、うちで生産している作物がものすごく偏ってて。お米の他に育てているのが、小豆と百合根。観光地のお土産菓子や高級料亭で使われるような作物がメインなんです。なので、収入源となる作物が昨今の情勢と連動してたから、こりゃまずいなぁって。
百合根なんかは、高級料亭で使われる作物だからコロナ禍で需要が低下。だいぶ余ってしまうので、役場と田中酒造に相談したんです。そしたら、「百合根で焼酎を作ってみよう」と。
ーー百合根焼酎ですか!
境:困っているという話を聞きましてね。「蔵人衆」シリーズとして、酒米生産部会で生産している酒米と合わせて、百合根焼酎にしたんです。
千田:ありがたいことに、作った分が全部売れて「また作りたい」と言って下さって。百合根の焼酎に興味をもってくれる人がいた思うと、安心しました。
ーー周りの助けを得ながら苦境を乗り越える中で、大切にしていることはありますか?
千田:商品化や酒造については、任せられる方々がいるから、私たち酒米農家は良質なものを作り続ける。私にとっての米作りは、農家としての根幹というか、譲れないもの。なので、苦しい時期でも田んぼ一枚一枚と向き合って、苗の顔を見ながら手を抜かずやることですね。
記憶に刻まれる名酒への架け橋へ
ーー酒米作りや「蔵人衆」を伝え続ける中で、喜びを感じた瞬間ありますか?
千田:一年以上会ってなかった人から「あの時、持ってきてくれた日本酒ってどこで買えるの?」って連絡が来たんです。いろんな人に、お土産やお祝いの時に渡したりしていて。気に入ってくれたんだと思うと嬉しかったですね。
境:「蔵人衆」はニセコ町の特産品が少なかった頃からあって、今では町内外の人がお土産として使ってくれるので、ありがたいです。
ーー酒米生産部会として、今後掲げる目標などありますか?
千田:良質な米作りへの徹底はもちろんのこと、町民や観光客の方々をはじめ、「蔵人衆」がより多くの人に親しみを持ってもらえるような存在になれたらいいなと思います。「あ、日本酒の人だ」って思ってもらえるくらいにね。笑
境:「蔵人衆」が色んな方々の目に留まって、記憶に残るような商品になるように、これまでも日本酒だけでなく、酒粕を使った商品も開発してきました。今後はさらに、生産者と直接繋がる交流の場を少しずつ企画したいなという思いはあります。コロナ禍で実施できてませんが、以前は町内の高校生や町民が集まって酒米の田植えや収穫体験をしたり、酒粕を使ったお菓子作りもしていたんです。体験を通じて、「蔵人衆」をより身近に感じてもらえたら嬉しいですね。
千田:酒米作りという船に乗り掛かったからには、商業的に成功できるところまで、生産量を増やしていきたいですね。
最後に、千田さんと境さんにとってニセコ町はどんなまちかと尋ねると、「ニセコを拠点に様々なチャレンジをしている人がいて、開発も進む一方で、昔ながらの農村らしい部分もあって、そのバランスがいいですよね。」と互いに頷きながら話す様子が印象的でした。
酒米も町民のチャレンジから生まれた作物の一つ。2021年に発売された「蔵人衆」の純米大吟醸は、華やかな余韻。素材の良さを生かしたおつまみと良く絡み合います。ニセコを訪れた日の記念や何気ない一日の食卓に添えてみては。