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南相馬市

1000年の歩みを次の時代へ 「相馬野馬追」を受け継ぎ支える影の立役者たち

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1000年の歩みを次の時代へ 「相馬野馬追」を受け継ぎ支える影の立役者たち

南相馬市プロジェクト

文:高田江美子 写真:鈴木宇宙

南相馬市には、1,000年以上に渡り受け継がれてきた伝統行事があります。国指定重要無形民俗文化財にも指定されている相馬野馬追です。
4百余騎の騎馬武者たちが、重厚感ある甲冑に身を包み、先祖伝来の旗指物を背になびかせた姿で集結。騎馬武者たちが街を行進する「お行列」、勇猛果敢に疾走する「古式甲冑競馬」、打ち上げられた御神旗を奪い合う「神旗争奪戦」など、人馬一体となって壮大な戦国絵巻が繰り広げられます。さながら戦国時代にタイムスリップしたような騎馬武者の姿は多くの人たちの心をつかみ、例年16万人もの観光客が訪れる夏の風物詩です。

写真提供:南相馬市役所
写真提供:南相馬市役所

相馬野馬追が行われる南相馬市は、2011年の東日本大震災・原発事故で大きな被害を受けました。厳しい状況の中でも、1,000年以上に渡り続いてきた相馬野馬追。伝統を受け継ぎ、文化を支えてきた2人の方にお話をうかがいました。

40歳から挑んだ甲冑師への道

武者たちが身に纏う甲冑や馬具を修復する甲冑師。全国でも数少ない甲冑師の1人が「甲冑・馬具工房あべ」の店主、安部光男さんです。
相馬野馬追の出場者が使う甲冑の修理や新調などを一手に引き受け、自らも相馬野馬追へ出場されています。伝統文化を支える甲冑師の仕事と、そこに至るまでの道のりについて語っていただきました。

――甲冑師はどういったお仕事をされるのでしょう?

安部:甲冑師としての仕事は色々。甲冑をはじめ、馬具や付随する小物類の修理や購入の相談が全国各地から寄せられます。セミナー講師として登壇することもありますよ。

甲冑は、2500〜3000程の部品が、紐などで組み上げられ1つの形となっています。造りや修復箇所によって、作業の範囲は異なるし、歴史的な品のため自然劣化も起こる。1ヶ所修復すために、一度全部を分解して直す場合も多いですね。

――「甲冑師」の道に進まれたきっかけは何だったのでしょう?

安部:小さいころから相馬野馬追を見て育って、「いつか自分も出てみたい」と思っていてね。けれど、戦後の貧困の時代に生まれ育って、祭りに参加するための馬や甲冑・馬具を買える余裕なんて全く無かった。初めて参加出来たのは20~21歳の頃。最初は農家の人から馬も甲冑も借りて。5~6年は借り物で参加する一兵卒だったけど、少しずつ役が付いて、出世していき、4年前から中ノ郷の郷大将を務められるようになりました。

甲冑師の道を進むきっかけは40歳頃。甲冑を研究する「九曜会」が発足し、そこに参加したのが始まりです。研究と共に甲冑の手ほどきを受けるうちに、甲冑作りの面白さに目覚めてね。

九曜会で招いた甲冑・武具の第一人者である笹間良彦先生に師事して、何年も東京まで行き来しながら学びを深め、甲冑師としての技術を磨きました。ありがたいことに、技術が認められて、明治以降途絶えていた甲冑師・岩井家の再興として「岩井光福」を拝命して。「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」じゃないですけどね。

書籍「新・甲冑師名鑑」にも岩井光福の名前が記され、長く続く甲冑師の歴史に名が刻まれています
書籍「新・甲冑師名鑑」にも岩井光福の名前が記され、長く続く甲冑師の歴史に名が刻まれています

生きた文化財を継承していくために

甲冑師としての道を歩んで30年。安部さんは、甲冑師という仕事について「普段の生活では甲冑は必要ではないし、甲冑師の仕事を理解し評価してくれる人は少ない。その中でも、地道に自分の仕事を全うし、死ぬまで、研究・勉強をし続け探求していかなくては」と語ります。1,000年以上続いてきた相馬野馬追を影で支える身として、野馬追への想いをうかがいました。

――安部さんにとって、相馬野馬追はどんな存在でしょう?


安部:相馬地方の宝であり、自分の人生の道しるべとなった、生きた文化財です。

平安時代から1,000年余り、相馬藩は藩主が変わることなく、続いてきました。これほど長きに渡ってお殿様が変わらない国は、どこにもないんです。そして、相馬野馬追のように、昔の侍と馬の姿で400頭余騎も参加する大きな祭りもここにしかない。
文化と歴史に誇りと責任をもって、未来永劫、守り繋げていかなくてはならないものです。

一方で、相馬野馬追の出場者は、年々減っていて、高齢化が進んでいます。私も一代で終わり。継承していくという問題は私にもあるんです。

――そういった状況の中、相馬野馬追が生き残っていくためには?

安部:相馬野馬追も、甲冑師という特殊な技術も、個々人に委ねるのではなく、旧相馬藩を挙げて、守り繋げていく必要があると考えています。

若い人や、身近に相馬野馬追の文化が無い人にも、興味を持ってもらいですね。出たい人を増やして、参加してもらうための取り組みがもっと必要。例えば、動画を作成しYoutubeでPRしたり。最初は少人数でも、希望者を集めて、馬の練習をする機会や祭りに出る機会を提供したりね。反響を見て、少しずつ規模を拡大して巻き込む人たちを増やしていきたいなと、考えています。

東日本大震災で、多数の甲冑や武具などの歴史的な品々を保管していたご自身の倉庫が流され消失してしまい「初めて商売を辞めようかなと思った」と振り返っていた安部さん。全国各地のお客様たちから「安部さんが辞めたら、日本の伝統文化を守っていく人達が困る。辞めないでほしい」と、激励の声や支援が寄せられたことが力になり、強い想いで、甲冑師の仕事に邁進しています。
困難を乗り越えてきた安部さんは、これからも挑戦をつづけていきます。キラキラと輝く目には、地域と相馬野馬追を愛する気持ち、未来へ繋いでいくという強い想いがあふれていました。

染め物一筋70年。武者たちを背中で支える旗指物

「家の印」としての役割をもつ旗指物。相馬野馬追に参加する武者たちの背中には色とりどりの旗指物がはためきます。南相馬には、旗指物を伝統的な技法で染めるただ1人の職人がいます。「西内染物店」の店主、西内清実さんです。
この道70年、背中で武者たちを支えてきた西内さんにお話をうかがいました。

「旗の色にこそ染物職人の感性が現れるんだ」とおっしゃる西内さん。相馬野馬追で武者たちの背中を彩る旗指物は、どのように作られていくのでしょうか。まずは、西内さんのお仕事についてたずねました。
――旗指物はどういった工程でつくられていくのでしょう?


西内:旗指物作りは、色作りから始まります。浅葱(あさぎ)、群青(ぐんじょう)、鴬(うぐいす)、山吹(やまぶき)、朽葉(くちは)。ーー多様な日本古来の色を再現するために、何色もの染料を微妙に掛け合わせながら配合していき、納得のいく色を作って、染めていくんだ。
色の配合には、定められた調合量や調合手法といった決まり事やそれを伝える指南書などは存在せず、何を混ぜるか、どのくらい混ぜるか、というのは長年の勘。何度もはぎれを試し染めしながら、納得がいくまで色を調整していく。
染めの工程が済むと、次は染めない部分に糊を置いて、色を引いていく作業。色を定着させるために蒸したら、友禅流しで余分な染料と糊を洗い流して、干す。最後に縫製を経て完成。

西内:染物はとにかく天候に左右されるんだ。天気、気温、湿度の条件が揃った時じゃないと作業が出来ない。お天道様の機嫌を見ながら進めるから、1つ仕上げるのにも時間が掛かるね。
染め物職人だったお父さんの背中を見て育ってきた西内さん。染物屋になるのは自然の流れだったと言います。22歳で1年間修行に出て戻ったのち、今日にいたるまで、どんな道を歩んできたのでしょう。

――西内さんは染め物職人として、70年間どのように歩んできたのでしょう?

西内:修行から戻った後は、染物もしながら、小さいオートバイであちこちセールスに走り回ってね。岩手県までいったりもしてたんだよ。
26歳で結婚したんだけど、親父が、結婚後半年で胃潰瘍で胃を全摘出、療養していたが手術後20年経った頃に脳梗塞になり16年病床で過ごして・・・。自分が代わりになって、仕事を引き継いだんだ。6人兄弟で、妹や弟たちは就職させたり大学へ行かせたりして。だから銭はねぇわな(笑)。仕事やならきゃみんなを食べさせられないから、ずっと仕事したな。

今は、歳とってきて、だんだん腰の踏ん張りがきかなくなったり、握力が無くなってきてね。生地に糊を引いたり、糊の入った袋を絞り出すのも、一苦労。

この仕事は、俺一人だけでは出来ないこと。
持ち運びや川での友禅流しは、奥さんと嫁さんに手伝ってもらいながらやってる。一本柱では立っていられないが、三本柱になれば誰かがつっかえ棒になって、何だかんだで倒れない。そうやって三人の力があるから倒れずやってこれているんだな。

地域で1人の旗指物職人として、力を尽くせる限り染めていく

今では地域の旗指物職人は、西内さんただ1人となりました。「自分が染めた旗を行列や祭場で見つけると、嬉しい。更に、手柄を上げて羊腸の坂を駆け上がる騎馬武者の背中に自分の旗があったら、心が躍るよ」と語ります。今後の相馬野馬追への想いをうかがいました。
    
――相馬野馬追の今後について、どう考えていらっしゃいますか?


西内:相馬野馬追の旗指物は、昔は地域の染物店で分け合って仕事をしていたんだ。それが今は、誰もいなくなって俺だけになってしまった。だったら人を増やすかなと思っても、他の人を使うほどの仕事の量でもない。

後継者がいれば良いなぁと思っていたところ、息子が仕事を手伝って徐々に分担するようになったんだけどね。2013年に、病気で急逝してしまったんだ。
俺が疲れてくると「親父、俺手伝うぞ」といって俺の仕事をやってくれたりしてな。そのうち仕事を任せられるな~と思っていたんだけど、ダメだった。

俺は息子の代わりにも一生懸命立たなくちゃならない。

もう、お客様には引導渡してて、「野馬追の旗は頼まれれば染める。でも、出来たら幸い、出来ねかったらごめんな、出来ないときはもう俺いねぇからな」って。そう言ってから注文とってるの。どこまでいかれるかわかんないけど、頑張っていくんだ。

現在88歳、70年以上のキャリアを持つ熟練の職人である西内さん。明るく豪快にお話しされる姿に、苦境にも負けず一つ一つの仕事に、丁寧に向き合ってきた職人魂を感じました。

2011年の東日本大震災で大きな被害を受けた中でも、騎馬数を大幅に減らしながら開催された相馬野馬追は、地域の人々の復興のシンボルです。千年続いてきた歴史の火を守りたい、という人々の強い想いは、2020年、新型コロナウイルス感染症の影響下でも、一部の神事のみを無観客で開催し、途絶えることはありませんでした。
親から子へ、子から孫へ。歴史と伝統を未来へと受け継ぐことが、南相馬の希望の光となっていきます。

写真提供:南相馬市役所
写真提供:南相馬市役所

会社情報

甲冑馬具工房あべ
975-0011 福島県南相馬市原町区小川町16−3
0244-22-0334

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