「用の美をもつ家具」の夢を繋ぐ。北海道民芸家具を支え続けた職人|飛騨産業株式会社
三笠市事業者の想い
文:浅利 遥 写真:斉藤 玲子
私たちの暮らしに寄り添い、生活に溶け込む家具。親子2代3代に渡って受け継がれるような良質な家具が、北海道三笠市で生み出されています。
「家具は心の豊かさや潤いある生活をもたらす、ひとつの文化のようなもの」と語るのは、飛騨産業株式会社北海道工場相談役の東海林貞雄さん。15歳から家具職人の世界に飛び込み、60年以上に渡りこの道を歩んできました。
北海道民芸家具から飛騨産業株式会社までの紆余曲折の道のりをうかがいます。
「用の美」に根ざした北海道民芸家具の誕生
創業者の大原總一郎が「用の美」をもつ家具づくりを目指して1964年に創業した、北海道民芸木工株式会社。岡山県倉敷市の実業家だった大原氏が、北海道で目指したものとは?北海道民芸家具誕生の背景を東海林さんにたずねました。
ーーまずは北海道民芸家具について教えてください。
東海林:設立当初から一貫したデザインで、椅子やソファーをはじめ、テーブル、タンス、照明など豊富に取り揃えています。家具って家族の一員のようなもの。暮らしの中で家族の歴史を繋いでくれるんです。必要な時に一つ一つ揃えることができるように、基本的なデザインは今でも全く変わっていません。
ーー時を経ても人々に受け入れられるデザインということですね。
東海林:「用の美」といって、柳宗悦氏が提唱した「生活用具の中にこそ本当の美しさがある」という思想が家具づくりの根底にあります。柳氏は1926年から始まった民芸運動の中で、「民芸」という言葉を生み出した人物。北海道民芸家具の創始者である大原總一郎の父・孫三郎は柳氏と親交が深く、息子である總一郎にも父の想いと柳氏の民芸思想が受け継がれたのです。
ーー大原氏は縁もゆかりもない北海道で、なぜ民芸家具を作り始めたのでしょうか。
東海林:きっかけは、松本民芸家具との出会いでした。当時、倉敷レイヨン(現在の株式会社クラレ)の社長だった大原は、長野県松本で開かれた民芸協会の会合に参加したんですね。そこで、松本民芸家具の素晴らしさに感動し、「自分もやってみたい」と心に火がついたそうで。
松本民芸家具の創立者である池田三四郎に「北海道で民芸家具を作りたいんだ」と意気込みを語ると、「あんたみたいな素人がつくったらいかん。なんぼ好きでも、簡単にできるもんじゃない」っちゅって。相当反対を受けたんですよ。だけども、大原の情熱は消えなかった。視察で北海道を訪れた際、当時の北海道知事・町村金五氏から企業進出の要請を受けて、1966年に北海道千歳市工業団地に北海道民芸木工の工場を設立。北海道民芸家具が誕生しました。
ーーすごい情熱ですね。「簡単にできるものじゃない」と言われた家具づくりですが、実際にスタートしてどうだったのでしょう。
東海林:千歳に工場を構えてスタートした時は、ものづくりに関心のある若者を20名程募って、松本民芸家具で1年半修行させてもらったそうです。だけども、若者が1年半の修行では、大原が目指す家具を簡単にはつくれませんでした。
つくっても、つくってもだめで、試行錯誤して。
会社設立に協力してくれた関係者が「全部でうちで買い取って売るから」って言ってくれたものの、あまりにも技術不十分で・・。最初は相当苦労したようです。さらに不運が重なって、北海道民芸家具創業から4年後の1968年に大原が亡くなってしまって。
実は私が携わるようになったのは、それから。1970年に北海道民芸木工の製造技術の主任として加わりました。
15歳から家具一筋。 託された北海道民芸家具の未来
1970年、製造技術の主任として北海道民芸木工に入社した東海林さん。家具の世界に足を踏み入れたのは15歳の時だったそうです。そこから、どのような道を経て北海道民芸木工にたどり着いたのでしょう。その道のりをうかがいます。
ーー東海林さんは、いつから家具の道へ?
東海林:私は15歳で旭川の青山洋家具に入社して、家具の基本的な製造技術はそこで身に付けました。お客様のところへ行って図面化し、確認してから制作。塗装も自分でやりました。全て、自分にとっては勉強。修行だと思ってやってましたね。
ちょうど30歳になって、独立しようと思っていた時に千葉短期大学木材工芸課講師の斎宮武勒(いつき ぶろく)先生の講演会に参加したんです。目から鱗が落ちるような内容で、びっくりしましてね。先生は日本ビクターで製造木工部長を務め、英語も堪能な方でした。当時の日本にはなかった木工の技術を習得されていて、その卓越した技術に私は感銘を受けました。
先生は創業者の大原亡き後、北海道民芸家具の存続をかけて、月に2〜3回千歳工場で技術指導もされていたんです。私は先生と交流しているうちに、「あまりにも技術がひどすぎて、私だけじゃどうにもならない。東海林さん、私の右腕になってなんとかしてほしい。あんたのこと一生面倒みるから」と言われてね。笑
予想外の展開でしたが、北海道民芸木工に入社して千歳工場の技術指導を任されることになったんです。
ーー講演会で衝撃を受けた先生から右腕になってほしいと言われて、重荷に感じませんでしたか?
東海林:重荷というよりも、北海道民芸家具と出会って「日本にもこんな素晴らしい家具があるんだ」と思いました。薄い板を張り合わせた合板だったり、木目が印刷された家具が流行していた時代。北海道民芸家具は、製品に適した木材の選定から乾燥、加工、検品までひとつひとつ丁寧に時間をかけて制作していて。こだわりが感じられました。
東海林:一方で改善しなければならない部分もありました。最初は、塗装技術の指導を担当していたんですが、製造も担当することになりまして。私が工場に入ってからは、塗料は薬品着色をやめて、染料を使った着色に改良したり、塗装の機械も導入しました。製造においては、品質向上と生産効率を上げるためにマニュアルを作成して、新型機械の導入なども考案した結果、ようやく順調に生産することが出来ました。当時の工場長は驚いて喜んでくれましたね。手本となる先輩のもとで、教わりながら製造できる環境があれば違ったかもしれませんが、前例がない中で家具をつくるっちゅうのは大変でした。
ーー前例がない中での家具づくりだったのですね。千歳工場からスタートして、その後三笠工場はどういった経緯で設立されたのでしょう?
東海林:北海道民芸家具の品質向上と製品の種類が増えたことで、受注が増えましてね。とはいえ、製造が追いつかず半年以上も待たせる事態になってしまったんです。そのタイミングで工場増設に踏み出しました。千歳に第二工場を建てるには敷地が狭く、土地を探していた時に三笠市が企業誘致をしていたんです。炭鉱離職者雇用条件もあり、従業員確保にも都合が良かったので、産炭地域誘致企業として三笠工業団への進出しました。
ーー新たな工場設立に際し、東海林さんご自身は苦労もあったのでは?
東海林:不安は大きかったです。幹部の決断で新たな工場建設が決まりましたが、彼らはものづくりの基礎を熟知しているわけじゃありませんでした。そこで、現場にいる私が工場建設管理から最新機械や製造設備の準備まで携わりました。さらに、人員を増やしてまた一から技術指導をしないといけなかったもんですから。千歳工場で苦労したこともあって、どうしたらスムーズな生産体制をつくれるのか、悩んでね。
まずは、三笠近郊の炭鉱離職者や若者を集めて、工場設立の10ヶ月前に千歳で勉強会を開いたんです。大きな建物を借りて、そこで生活しながら、昼間は製造技術の訓練、夜は基礎教育指導。千歳工場と三笠工場で約360名体制で事前準備ができたおかげで、問題なく三笠工場を稼働させることができました。工場新設以前で課題となっていた、供給の遅れも改善し、お客様の満足度を上げることにも繋がったので達成感がありましたね。
順風満帆にも思えた矢先の事業縮小撤退
日本の高度経済成長による生活向上が追い風となり、人気を伸ばしていった北海道民芸家具。立ち上げから45年が経過した頃に一変、事業撤退に追い込まれました。その状況を救ったのが、現在の飛騨産業株式会社の社長である岡田贊三さんでした。
ーー事業の縮小撤退することとなった背景にはどんなことがあったのでしょう?
東海林:2008年の世界的な金融危機の影響が大きかったですね。日本国内でも消費離れが加速して、100年に一度の危機と言われるほど経済は疲弊していました。1995年から北海道民芸家具の事業を担っていたクラレインテリアでは、新たなインテリア家具の開発にも取り掛かるなど、危機を脱するために施策を講じてきましたが、当時の卸先は家具を扱う問屋に依存していて、次第に売れる見通しが立たなくなり、売上は減少。まわりの企業も次々と倒産していく状況の中、クラレインテリアも2009年に廃業が決まり、引き継ぎ先を探していました。
北海道民芸家具のことを知ってくださっていた飛騨産業の岡田社長が「素晴らしい伝統的な家具だから灯を消しちゃいけない」と声をかけてくださって。飛騨産業も同様に経営が厳しい状況でしたが、岡田社長は生き残りをかけて経営方針を大転換していったんです。手を差し伸べていただき感謝に堪えません。
ーー飛騨産業の傘下に入るなかで、すんなりいかないこともあったのでは?
東海林:北海道民芸家具の製品については、ファンの方も多かったので、顧客へのアフターフォローと受注生産を継続していました。それに加えて、飛騨産業の製品製造も担うことになり、これまでと異なる製造技術が求められました。特に難しかったのが、「曲木」でしたね。
ーーベテランの東海林さんにとっても難しかったんですね。
東海林:簡単な曲木はやってましたが、飛騨産業ではとにかく、曲がらない木はないくらい、なんでも曲げました。笑 この技法はドイツのミヒャエル・トーネットという人が発明して、日本では戦後に伝承され、飛騨産業はずっとその技法を使ってきたんです。
特に、椅子の背面や手すりは曲木が必要で、本格的な設備もなく苦労の連続でした。いっちばん難しかったですね。本社からの適切な指導もあり、ひとつひとつ技術を取得しました。とにかくやってみて解決していく。やってみてから考える。それが僕のなかで大事にしていたことです。
家具作りには夢がある
2020年に100周年を迎えた飛騨産業。次の200周年に向けて、新たな企業の活動を目指したいと話す東海林さんに今後の展望をうかがいました。
ーー今後やってみたいことや、新たな取組みについて教えてください。
東海林:国産材の活用に力を入れて、魅力的な商品開発を進めています。飛騨産業では特殊な圧縮技術を開発して、柔らかすぎて本来であれば家具用材には向かない杉や檜、カラマツなどの針葉樹木材を家具用材として使えるようにしてきました。
北海道三笠工場が建つ三笠周辺には、今まで使われなかったハリエンジュやトドマツといった樹木が多く自生しています。トドマツは、建築用材として伐採されたあとに捨てられる枝葉から油を採って、三笠産アロマオイルとして販売したり。他にも、家具の製造過程で出る端材を活用した商品開発にも取り組んでいます。木育教材として使える積み木にしたり、三笠高校レストランで使用するテーブルや椅子、コースター、箸置きなども共同開発して使われています。
今後は、端材を三笠市公共施設のバイオマス燃料として活用することも検討中です。とにかく、木に関わる全てのことはなんでもやろうかと。笑
ーー木からどんどん夢が広がりますね。最後に東海林さんにとって、家具とは。
東海林:私の人生のすべて。家具をつくることは夢があります。親子2代にも3代にも渡って長く使ってもらえる家具をつくってこれたことは、誇りに思います。家具は、心の豊かさや潤いある生活をもたらす、ひとつの文化のようなもの。
今81歳で昨年の9月に退職を依頼しましたけど、専務がちょっと待ってと。笑
縁を切らさず週に1回でも2回でもいいから来てくれないかと言われ、相談役として工場に足を運んでいます。いくつになっても、家具づくりに携われることは喜ばしいことですね。
取材後、木の優しいかおりに包まれながら工場を見学させていただきました。ひとつの家具ができるまでの工程の多さと職人の匠の技に圧倒されました。家具がひとつできあがるまでには、16もの工程があり、各工程に職人がいるそうです。「用の美=暮らしの中にある美しさ」をもつ家具は、多くの職人たちの想いが繋がってできていたのです。
少年のように微笑みながら「ものづくりはたのしい!」と話していた東海林さん。東海林さんの想いは北海道民芸家具に詰められて、次の世代にも渡継がれていくことでしょう。
〒068-2165
北海道三笠市岡山194