takibi connect
三笠市

【三笠市長インタビュー】炭鉱のまち三笠が“再生”から見出す希望の光

takibi connect

【三笠市長インタビュー】炭鉱のまち三笠が“再生”から見出す希望の光

三笠市プロジェクト

取材:中村敦史 文:髙橋さやか 写真:斉藤玲子

かつて炭鉱都市として栄えた北海道 三笠市。北海道最初の鉄道全通や電話開通、上水道の設置がおこなわれた地域でもあります。炭鉱が閉山してもなお、三笠の人々に宿る挑戦の炎は消えていません。
 
takibi connectではこれまで、地域に根ざし活躍してきた三笠市の挑戦者を取材してきました。今回は特別編として、「再生」をテーマに挑む三笠市のまちづくりについて、西城 賢策 三笠市長 にお話をうかがいました。

黒いダイヤから発展した三笠のまち

西城市長曰く「挑戦なくして語れない」という三笠のまち。歴史からその歩みをひもときます。

ーー三笠市はこれまでどのような人の挑戦によって、築かれてきたのでしょうか?

 
西城市長(以下、西城):三笠の歴史は1868(明治元)年に三笠市・幌内の奥地で石炭が発見されたことに端を発します。当初開拓使は石炭が貴重なエネルギー資源だとは知らず、炭塊は放置されていたそうです。
 
その後1872(明治5)年に、札幌の早川長十郎が石炭の塊を掘り出し、榎本武揚が調べたところ、良質な石炭であると判明しました。1879(明治12)年には北海道初の近代炭鉱・幌内炭鉱が開鉱。同時期に黒田清隆、 伊藤博文、山縣有朋らが三笠の開拓を本格的にスタートしました。
 
わずか3年後の1882(明治15)年には、石炭を輸送するため、北海道初となる鉄道が完成しました。炭鉱労働を担ったのは、同年設置された空知集治監の囚人たちです。当時は札幌の人口が1万人だったのに対し、三笠の人口は4000人に上りました。まちが急激に発展し、炭鉱地帯が形成されていった様子がうかがえますよね。

幾春別炭鉱(昭和28年)の様子(引用 : 三笠ジオパークホームページ)
幾春別炭鉱(昭和28年)の様子(引用 : 三笠ジオパークホームページ)

西城:集治監では囚人たちの食糧を賄うため、アメリカ式の農業が導入されました。農業資材を輸入して生産性を上げ、三笠では農場が発展していきました。
 
石炭に農産物、当時の三笠は“素材の大産地”だったわけです。
 
炭鉱や鉄道・集治監の設置にともない、そこで働く人々や彼らに飲食を提供する人々が集い、何もなかった土地には集落がうまれ、三笠市の前身となる市来知村(いちきしりむら)が開村しました。三笠の産品は鉄道によって札幌に運ばれ、市場では「市来知物(いちきしりもの)」を人々が心待ちにしていたと言います。当時はまだめずらしかった瓜なども生産され、現在の特産物「三笠メロン」へつながる礎となりました。

イオンアグリ農場で生産された三笠メロン
イオンアグリ農場で生産された三笠メロン

西城:開拓当時の三笠はうっそうとした原始林だったそうです。一本一本、木を切り倒し、根を掘り起こして、先人たちは少しずつ農地を切り開いていきました。馬や牛といった家畜を飼える時代ではありませんから、人力で開墾していったのです。大変な苦労だったことでしょう。
 
榎本武揚や黒田清隆らが、炭鉱に目を向けこの地で挑戦の土台を築いた。鉄道ができ、会社ができ、農業者が田畑を耕し、現在の三笠へとつながっているのです。

炭鉱閉山ですべてを失っても、自立の道を

「炭鉱一色」といわれる三笠の歴史。明治から日本の近代化を支えた石炭でしたが、1962(昭和37)年の原油(石油)の輸入自由化にともない、日本のエネルギー源は石油へと切り替わっていきました。炭鉱での事故なども重なり、1957(昭和32)年の幾春別炭鉱を皮切りに、三笠の炭鉱は相次いで閉山。最盛期には62,781人をほこった三笠の人口は年々減少し、幌内炭鉱が閉山した1989(平成元)年には20,000人を切りました。

西城:
炭鉱閉山によってあらゆるものを失いました。職業安定所、電電公社(現NTT)、JR、 警察署・・失ったものが非常に多かったですね。1年間に1万数千人、時には2万人もの人が三笠を離れていきました。

ーー1999(平成11)年から政府主導で市町村合併がすすめられました。三笠市は急激な人口減少にあっても、2003(平成15)年に合併ではなく自立の道を選ばれたのは、なぜなのでしょう?
 
西城:「町のアイデンティティを守っていきたい」という思いを市民が持っていたからです。
 
当時の市長は「合併について市民の意見を聞こう」と、アンケート調査を実施しました。全職員で全世帯へ出向き、市民の意見を聞いてまわったのです。 極端な差はなかったものの「自立したい」という声が上回りました。皆「先人が苦労の上に築き上げたまちを手放したくない」という気持ちだったと思います。私自身もそうでした。
 
苦しい状況ではありましたが、何がなんでも新しい挑戦をしようと思っていましたね。
 
「大きな町の小さな歯車になるよりも、 自分たちで自立していこう」と、三笠は動き出したのです。

西城:閉山後の三笠の挑戦は“再生”です。
例えば道の駅のリニューアルや北海盆おどりの復活。三笠は「北海盆唄」発祥の地で、その原点は炭鉱にあります。時代とともに廃れていましたが、「再び三笠の人々が集う場をつくろう」と、商工会の青年部をはじめ若い方たちの協力を得て、2002(平成14)年に復活しました。今では全道各地から多くの方が訪れる一大イベントとなっています。

毎年多くの人で賑わう三笠・北海盆おどり(写真提供:三笠市役所)
毎年多くの人で賑わう三笠・北海盆おどり(写真提供:三笠市役所)

若者の力を借り、北海盆おどりを復活させてから8年後、三笠市は新たな難題に直面します。少子化や人口減少の影響により、道は2010(平成22)年に道立三笠高校の募集を停止。2012(平成24)年3月の廃校を決めたのです。

西城:
三笠高校が募集停止となった頃、とある新聞記事が目に止まりました。「三重県立相可(おうか)高等学校が高校生レストランを始めた」という内容でした。
 
当時私は三笠高校の存続運動に直接は関わっていませんでしたが、副市長として、市長や教育長が苦心する姿を間近で見ていました。
 
「高校生レストランなら、三笠高校を復活させられるのでは・・」と、出勤してすぐに市長に伝えました。「おもしろいね」と、すぐに教育長を呼び、相可高校がある三重県多気町へ向かってもらいました。 高校と自治体の協力を取り付けられたら、三笠高校を道立から市立に移管して、市で運営しようと。
 
協力体制は得られたものの、三笠市議会では大議論され反発もありました。
 
少子化の時代に市立の高校を作って本当にうまくいくのか?
古い校舎に生徒が集まるのか?と。
 
当時副市長だった私は「最初は1学年数人かもしれません。それでも、始めなければいけない。一生懸命頑張ります」と、必死に答弁しました。
ところが募集を開始したら、予想を遥かに上回る生徒が集まったのです。

2012(平成24)年4月市立三笠高校は、道内の公立高校では初となる食物調理科の単科校としてスタート。2018(平成30)年には「食」への理解を深める教育を行い、生徒が腕を磨くための研修施設「三笠高校生レストラン MIKASA COOKING ESSOR(エソール)」をオープンしました。

三笠高校生レストラン ESSOR(エソール) (写真提供:三笠高校)
三笠高校生レストラン ESSOR(エソール) (写真提供:三笠高校)

西城:当初から高校生レストランの構想はありましたが、三笠市の規模では費用を簡単には捻出できません。望みを託したのが、国の地方創生拠点整備交付金です。何度も内閣府に通い要請をつづけましたが、なかなか許可はおりませんでした。
ところが、 ある日の国会答弁で三笠の高校生レストランの話題が上り、実現へと走り出したのです。
 
高校生レストランのオープン日には、国会や道議会の先生、知事など多くの著名人にお越しいただき、大変華やかな大イベントとなりました。ありがたいことに、オープン後も多くの方にご利用いただいています。
 
人口が縮小し子どもの数が減少する中、高校を復活させるのは大変なパワーが必要でした。多くの方にご協力いただいたからこそ、今の三笠高校があるのです。

三笠に一筋の希望を与えた市立三笠高校。学校では授業にとどまらず、講演会や特別活動などを通じ、地域とのつながりも深めながら、幅広い視野を持つ「食」のプロフェッショナルを育成しています。

西城:三笠高校では道内のコンビニエンスストアとのコラボレーションや、催事出店などさまざまな展開が生まれています。マスコミでご紹介いただく機会も多く、生徒はインタビューを受けると「三笠のために」と言ってくれるんです。涙が出るほど嬉しいですね。
 
生徒は学校にとどまらず、農業者のところで生産方法を学ぶなど、地域との関わりにも積極的です。地域の運動会に出向いて、参加者の皆さんにカレーライスをご提供したりね。
 
三笠高校と地域の繋がりが深まり、地域の方々は温かく見守ってくれています。

“再生”で築く、持続可能なまち

“再生”をキーワードに展開されてきた三笠市の挑戦。現在取り組んでいるのが、三笠の礎となった炭鉱に光をあてる事業です。

ーーこれまで三笠市の挑戦についてうかがってきましたが、現在取り組まれている事業はありますか?
 
西城:2008年から室蘭工業大学と共同で、炭鉱の地下ガス化事業に取り組んでいます。
 
地下にボーリングして火をつけ、不完全燃焼した石炭からガスを製造する実証実験をおこなっています。水素や二酸化炭素、メタンなど、必要なガスを取り出すという仕組みです。
 
ーーそんなことができるんですね。

西城:三笠の炭鉱は140年以上採掘されてきましたが、採掘量は全体の1割に満たず、約7.5億トンの石炭が眠っています。実用化されれば、おそらく日本中の旧炭鉱で同じ技術を使えるでしょう。
 
クリーンエネルギーの時代に合わせた水素の製造や二酸化炭素の分離・回収が実現すれば、荒廃した産炭跡地への企業誘致も叶います。
 
炭鉱が閉鎖になった時から、私は「もう一度三笠にある資源で新しいまちづくりができないか」と考えていました。辿り着いたのが、この石炭の地下ガス事業です。現在は実証実験の段階ですから、絶対に実用化できるという保証はまだありません。それでもトライしなきゃ意味がない。
 
2021年にはNEDO※調査事業を受託し、2022年には大規模なCO₂固定化実験をおこなうなど、ここ数年で事業は急速に動いています。
採択の通知には「日本のエネルギー安全保障に貢献する事業であり、国内外への展開も含めて常時検討を続けていくこと」という条件が記されていました。今後の展開への期待がこめれられた言葉に嬉しさを感じました。

※NEDOとは国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構の略称。日本のエネルギー・環境分野と産業技術の一端を担う国立研究開発法人のこと。

ーー希望を感じる事業ですね。
 
西城:これまで培ってきた取り組みの集大成として構想しているのが「4大プロジェクト」です。
 
1つ目は三笠高校と三笠高校生レストランが取り組む「食」による地域のブランド化。
2つ目がジオパークに指定されている特徴的な資源の有効活用と、歴史文化の伝承活動。
3つ目が民間企業との連携による農業活性化と、農家や農業法人の安定運営。
4つ目が未利用のエネルギーを有効活用する石炭地下ガス事業の研究開発。
 
これらを全てリンクさせて、教育観光につなげていく構想です。
 
イメージとしては、地下ガスのエネルギーをイオンアグリ農場に供給し、一年を通して野菜が安定して生産できる環境を整え、高校生レストランの料理として三笠野菜のおいしさを知っていただく。その土台となるのが、三笠の自然と文化が形成するジオパークです。
 
文化や歴史、風土への知識欲求を満たす教育観光であれば、小さなまちでもチャレンジできる。教育観光を中心に据えて、三笠の歴史、文化、資源をリンクさせれば、強いまちづくりに繋ると考えています。

ーー三笠の資源をフル活用する構想ですね。最後にふるさと納税の使い道と今後の展望について教えてください。
 
西城:寄付使途として積極的に力を入れていくべきは、子どもたちと高齢者への還元。もう1つが産業づくりです。
 
エネルギーと食糧、そして産業技術、3つの安全保障が非常に大切な時代に入っています。三笠市では時代に沿った新しい暮らしに向け、チャレンジしているところですから、ふるさと納税でご支援いただけるのは非常にありがたいことです。
 
町の哲学は歴史の中に凝縮されています。
炭鉱とともに全てを失いましたが、再び明治の開拓心を持って、まちのステップアップを模索していきたいですね。
 
炭鉱の気概を忘れずに、三笠の未来を拓いていきます。

市役所の隣、三笠市中央公園には盆踊りの櫓(やぐら)が立っています。盆おどりの復活に際し、奔走したのは当時職員だった西城市長でした。開拓期から現代にいたるまで、三笠の土台にある炭鉱。時代に沿って形を変え、挑戦の灯火は受け継がれていきます。

三笠市よりご案内

【ふるさと納税・選べる使いみち】
三笠市ふるさと納税では、使いみちを指定しない“市長におまかせ”を除き、寄附者様の意向を反映できるよう9つの使いみちから選択することができます。使いみちの一つとして、ゼロカーボンシティ・クリーン水素製造事業への項目もあります。
 
「9.ゼロカーボンシティ・クリーン水素製造事業」
三笠市では、クリーンな水素の地産地消を通じた地域活性化を目指しています。
未来のエネルギー「水素」による新たなまちづくりの実現に向けて、応援をお願いします。
 
その他、8つの使いみちや事業実施報告もぜひご覧ください。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加