どんな人にも言葉でつながる喜びを。
石狩市手話基本条例誕生の物語
石狩市プロジェクト
文:髙橋さやか 写真:斉藤玲子
「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」ーーわたしたちは普段何気なく、言語というコミュニケーション手段を使って生きています。海外旅行でカタコトの外国語がつうじた時、覚えたての手話でコミュニケーションを取れた時。共通の言語に心がつながる喜びを感じることがあります。石狩市では、手話を言語としてとらえ、どんな人にも言葉でつながる喜びを目指した条例が制定されました。石狩市手話基本条例ができるまでの背景とあゆみ、そしてこれからを石狩市役所の鈴木さんと山本さんにうかがいました。
手話は言語のひとつ
石狩市で手話基本条例が制定されたのは、平成25年(2013年)のこと。全国の市町村として初のことでした。石狩市が目指しているのは、人々が生きていくのに欠かすことのできない言語が平等に使用できるまち。ここに至るまでの道のりをうかがいます。
ーー石狩市の手話基本条例制定には、どういった背景があったのでしょうか?
鈴木:当時の石狩市長であった田岡市長と石狩聴力障害者協会の杉本さんという、2人の出会いから手話条例制定の物語がうまれました。
田岡市長が小学生の頃、耳の聞こえない人が、家族の暮らす母家とは別に「離れ」で暮らしているのを目の当たりにしたそうです。昭和の時代、「自分の家族に障害者がいることが恥ずかしい」ということから、その存在を隠していたのだろうと。その光景が、幼い心に原体験として強く残っていたそうです。さらに、大学時代には言語学を学んだというバックグラウンドがありました。
その後、市長に就任し多様な方と会う中で、ろう者の方とどうコミュニケーションをとったら良いかに戸惑ったそうで。「はたしてこんな自分でいいのだろうか」という想いから、手話条例をつくりたいという気持ちが芽生えたのです。
最大の抵抗勢力は市役所職員
ろう者や手話サークルメンバーとの交流の中で「手話条例制定」への想いを強くしていった田岡市長。「条例をつくれないだろうか?」と市役所職員へ投げかけます。
ーー職員のみなさんの反応は?
鈴木:残念ながら、当初はなかなか理解を得られませんでした。職員からは「まちづくり条例的なものであれば」「手話に優しいまちという宣言であれば」「地方公共団体が言語条例なんてつくれません、国がやるべきでは」「障害者福祉計画としてなら・・」といった反応で。最大の抵抗勢力は市役所職員だったのです。
とはいえ、田岡市長はトップダウンではなく、職員の理解をえながらすすめたいという想いを持っていたんですね。
ただ、職員の気持ちが変わるのを待っていても前へは進めない。ろう者の方や手話サークルとの交流を続ける中で、条例への想いを強くした田岡市長は、公的な場で条例の制定を表明することで、動かしていくしかないと決断します。
平成24年1月、石狩聴力障害者協会の新年交礼会で田岡市長は、「手話の地位向上を目指した条例の制定」を表明しました。
ーー職員の方からのさらなる抵抗というのはなかったのでしょうか?
鈴木:市長が公的な発言をすると、われわれ職員は自分がやりたいかどうかに関わらず、動かなければなりません。わたしは、人事異動でたずさわることになりましたが、配属された当時は、課長が非常にこまっていましたね。「何をやっていいかわからないから助けてくれ」と。
わからない中で、まずは検討会からスタートしました。
条例というのは、地域の人に知ってほしいことや守ってほしいことを定めたもの。制定するにあたって、ビジョンや理念が先にあってつくっていくものです。ですが当時は、まだ手話条例の理念は固まっていなかったんですね。なので、検討会をつくり走りながらスタートしていったわけです。
検討会では、市から2つの柱を示しました。1つ目は、「手話の言語としての認知」。2つ目が「聴覚障害者の社会参加の環境づくりの促進」です。ところが、ろう者の検討会委員さんから、「手話を言語として位置付けることと、福祉施策として考えるのは無理がある」「誰のために条例をつくるのか?」という厳しい声をいただきました。この質問に、明確な方向性を持っていなかった私たち職員は、答えることができなかったんです。
誰のための条例? 理念なきスタートにつまづいた検討会
手話条例の制定に向けてスタートした検討会ですが、その方向性をめぐって議論は暗礁にのりあげます。そんな中、暗中模索する市事務局のもとに、救世主があらわれました。
ーー理念や方向性といった条例の柱となる部分で、つまづいてしまったのですね。そこからどうやって方向性をまとめていったのでしょうか?
鈴木:全日本ろうあ連盟の久松事務局長が田岡市長のもとを訪れて、「われわれは条例づくりを応援しています。前例のない取組みはとても大変なことなので困ったらいつでも相談にのります」と言ってくれていました。検討会での議論が行き詰まっていることを相談したところ、非常にいいアドバイスをいただいたんです。
「条例を誰のためにつくるのか?」というところで、当初わたしたちは「ろう者のために」をイメージしていたんです。それを久松さんに相談したところ、「鈴木さん、ろう者のためにこの条例をつくることは必要でしょうか? 手話が言語である、ということを市民に広めていくことに条例をつくる意味があるんじゃないでしょうか」といわれ、ハッとしました。
「市民の理解をひろげていく」という視点を、我々は失いかけていたんです。
久松事務局長からの言葉がヒントとなり、そこから方針を切り替え検討会をすすめていきました。
鈴木:実は当初、議会での条例提案を9月で進めていました。時を同じくして、鳥取県でも手話条例の制定を目指して動いていたことから「どちらが一番になるのか?」という話題がマスコミでは盛り上がっていたんです。
ところが、検討会の1回目、2回目で暗礁にのりあげていたので、このままでは9月には間に合わない。「一番になること」を優先するのなら、コンセンサスを取らずに条例提案を出してしまう方法もある。そんな中で、「やっと方向性がみえました」と市長に伝えたところ、「やっとそういう深い議論になったのか、おれはうれしいぞと。時期は気にするな」と。
何がなんでも条例を一番でつくるを優先していたら、理念のない恥ずかしい内容となっていだでしょうし、時間をかけて議論したからこそ、自信を持って子ども達に条例の理念を伝えることができる内容になりました。
当時、田岡市長曰く、「本物はなくならない」と言っていましたが7年経った今その言葉を実感しています。
手話が言語として認められた「人生最高の日」
条例制定へのスタート段階で暗礁に乗り上げたものの、久松事務局長のアドバイスにより方向性を再確認。「市民の手話への理解を広げていく」という理念のもと、条例の制定に向けて動いていきます。そして、平成25年(2013年)12月16日石狩市議会で石狩市手話基本条例が可決されます。
ーー条例が成立したことは、石狩市にとっても大きな一歩だったのでしょうね。
鈴木:条例が議会で可決された際、ふだんは厳粛な場である議会の場で、「みんなでこの瞬間を祝おう」と市議会が配慮してくださって、条例誕生の瞬間をお祝いすることができました。
鈴木:石狩聴力障害者協会の杉本会長は、インタビューでこう語っていました。
「今日は自分の誕生日よりも大切な日となった。ずっと自分は手話を使ってきたけれど、手話を使うことで辛い思いもしてきました。自分の使っている手話が、言語として認められた今日は人生最高の日。人生が変わりました。」と。
わたし自身も、この条例の作成にたずさわったことで、杉本会長や久松事務局長をはじめ、たくさんの方と仕事を超えた出会いがありました。手話やろう者を取り巻く環境を、知らない人に広げていくことが使命だと、強い想いを胸にしましたね。
地域だけでなく全国に波及した 手話のムーブメント
石狩市手話基本条例が目指すのは「手話は言語、を多くの市民が共有すること」「手話で当たり前に暮らせるまちへ」という2つの柱。条例の制定の影響は、石狩市にとどまらず全国に波及していきます。
ーー条例をきっかけに変化したことはどんな点でしょう?
鈴木:まずひとつ目に、市民が手話やろう者を知るきっかけが増えたということです。手話基本条例は、制定して終わりではなく、周知していくこと、どうやって関心をもってもらうかが非常に大切でした。
そうした中、市内にあるスーパーが「従業員向け手話勉強会をしたい」と、声をかけてくれまして。ろう者の方が来店した際に、どんな接客をしたらいいのか、具体的なケースを実践しました。また、消防隊員の研修会も実施。ろう者の方は電話でのコミュニケーションが難しいので、緊急時はFAXを送るんですね。FAXを受け取ってから、消防隊員が現地でどうコミュニケーションをとったらいいか、を継続的に取り組んでいます。
もう一つの変化は、小学校、中学校での出前授業が当たり前の光景になったことです。地域教育として学校に根ざして実施されているのは、石狩市の特徴的なところ。手話を学んで終わりではなく、プログラム化されていて「どんなまちにしていったらいいか」を考えるきっかけとなる内容になっています。
石狩翔陽高校でも、年70時間手話の授業があり、小中高と長い年月で手話と関わっていきます。こうした環境で育った子どもたちは、大人になった時に決して手話を馬鹿にすることはないでしょう。そして、スーパーの方、学校の先生をはじめ、いいものを共感してくれる地域性があるのだと感じました。
こうした取り組みが注目され、全国の自治体に波及。手話に関する条例を作って動いていこう、というムーブメントが起こり、メディアが関心を持つきっかけにもなりました。
ーー条例ができて7年が経ちますが、現在はどういった動きになっているのでしょう?
山本:現在も、小中学校での手話の出前授業が一番の活動ですね。昨年は、緊急事態宣言による休校で授業数が少なくなった中でも、260回開催しました。
あとは、スーパーや道の駅、新しくオープンしたホテルなどでも手話の研修をしています。条例制定後から取り組んでいる手話フェスタという大きなイベントがあるのですが、ここ2年はコロナで開催できていないのが残念ですね。
コロナ禍に対応するため拡充したのが、遠隔手話通訳サービスです。
電話って、私たちは当たり前に使っていますが、ろう者の方は話せないんですよね。でも、ビデオ通話の仕組みをうまく使えば、ろう者も使えます。
コロナで手話通訳が同行できない場合の対応として、市でタブレットを導入して、市役所や医療機関、金融機関に設置したり、ろう者の方に貸し出ししています。コロナワクチンの接種予約、相談、接種時などにも利用されています。
山本:こうした新しい取り組みを導入する際は、市役所だけで考えるのだけでなく、当事者の方の意見も取り入れながら進めています。コロナ禍で今までの当たり前が変化している中、市役所としてできることは何かを常に考えていますね。
石狩市では、当たり前のものとなった手話施策ですが、現在も全国の自治体から電話でお問い合わせをいただきます。「コロナ禍でどう対応しているのか?」といった声もあります。
石狩市の取り組みを説明した後に「自治体の規模によってできることが異なるので、地域の実情にあった施策を作っていくことが大切ですよ」とお話しするようにしています。
ーー条例の制定以降、地域に根付いた取り組みが増えていますが、今後の展望などはありますか?
山本:市役所職員は、人事異動がつきものです。職員として手話条例の根底に流れる想いや理念を理解した上で、時代にあわせた形で後任にバトンタッチしていくことが、条例に規定されている市の責務を全うすることだと考えています。できあがったものに携わるのは難しい部分もあるんですが、勉強しながらですね。中身のある施策ができるようにやっていきたいと思っています。
現石狩市長の加藤市長は、新年のあいさつや、会議・イベントなどのあいさつを手話表現を交えて行います。市長のそういった行動や手話出前授業・手話フェスタをはじめとする施策事業に取り組んできたことで、石狩市では、子どもの頃から手話を学び、地域をあげてろう者と触れ合うことが当たり前となってきました。
いま、手話出前授業を受けている子どもたちが大人になる頃には、より理解が深まっているんじゃないかと思います。
鈴木:手話出前授業、ろう者の方、手話通訳者、手話サークルの方、消防職員など、石狩に住んでいる方が関心を持って協力してくれることで、こうして条例が地域に根付くものになりました。もがきながら進んで、みんなの協力で「いいね」になって。たまたまそういう方向にいきましたけど、どれが欠けても続いてなかったんじゃないかな。
我々職員は、担当している間にどうしたらいいかを考え、バトンタッチして。それを支えてくれる市民の人たちがいたからこそ、今がある。石狩市の市民力、地域力が手話条例の支えです。
「多様な人が生きやすい社会をつくっていこう」ーー近頃、そんな言葉を目にする機会がグッと増えました。頭の中では理解したような気になっていましたが、今回、石狩市手話基本条例の取材を通して気づいたのは「相手を知ることから、理解が深まっていく」ということです。当たり前のようでいて、表面的にしかできていないのではないかと、自分を振り返るきっかけになりました。
「手話は目で見る言葉」ーー石狩市のように、人と人とが言葉でつながる喜びが、社会全体にひろがっていくと、誰にとってもうれしい社会がつくられていくことでしょう。