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先人の知恵と歴史から学び、未来へ繋ぐオフイビラ源吾農場のやさしい農場

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先人の知恵と歴史から学び、未来へ繋ぐオフイビラ源吾農場のやさしい農場

本別町事業者の想い

文:三川璃子 写真:斉藤玲子

健康を考え、近年日本でも取り入れる人が増えてきた有機栽培農産物。ですが、国内で有機JASを取得している農地は全体の1%も満たず(農林水産省令和2年度調べ)、世界と比べるとまだまだ少ない状況です。

前例が少ない中で、本別町で有機栽培に挑戦する方がいます。オフイビラ源吾農場の篠江康孝さんです。有機栽培を続けて約10年の道のりと農場に込められた思いについてお話をうかがいました。

先人に学び、始まった有機栽培

篠江さんは、祖父の代から続く農家の3代目。主に大豆や小豆、小麦、じゃがいもなどを育てています。本別でどのように農業が継承され、有機栽培にたどり着いたのでしょうか。

ーー篠江さんのご出身は本別町ですか?

篠江:
僕は本別町の出身です。祖父が栃木で農家をしていたんですが、訳あって北海道に移り住み、紆余曲折を経て本別町にたどり着いたと聞いています。

僕は帯広農業高校に進学したんですが実は、農家をやりたいと思って農業高校に行ったわけじゃないんです。でも、高校には農業に誇りを持ってる人、農家が好きだっていう人がたくさんいて、刺激されました。卒業後は本別に戻って農家になりました。

ーー有機栽培はすでに先代から採用されていたのですか?

篠江:
いえ、有機栽培を始めたのは約10年前で、私の代からですね。

高校を卒業した時から、興味があって本を読んだりしてました。でも当時は有機栽培に対しては否定的な考えでしたよ。

篠江:有機栽培は、基本的に化学肥料や化学農薬を使わないで育てることが条件です。肥料や農薬が使えないことで、除草が大変になったり、作物の病気が防げなくなることもあります。

特に小麦は、赤カビ病という毒素を産出する病気があって、農薬をかけないとどうしても基準値を超えると言われていたので、日本の気候では有機栽培は無理だなと思っていました。

ーー否定的だった有機栽培に対して、考えが変わる出来事があったのでしょうか?

篠江:
知り合いの集荷会社の方から「音更町で有機栽培をやっている人がいる」と聞き、中川さんという方の農場を見せてもらったのが、転機でした。

僕は、有機栽培の畑は雑草だらけのイメージだったんです。でも、中川さんの畑は農薬を使ってない畑とは思えないくらい綺麗だった。​​話を聞いたら、中川さんは試行錯誤しながら大変苦労して、大豆の除草技術を習得したそうです。僕はちょっと除草剤使わずに育ててみたら、草ボーボーだったっていう経験からくじけて、「もう駄目だ」っていう感じだった。今考えたら努力というほどのこともしてなかった。

無理だろうと思っていた小麦も問題なく育っている光景を目にして、衝撃を受けました。これはチャレンジしてみようと思い、まずは大豆から有機栽培を取り入れることにしました。

ーー中川さんの畑を見て、有機栽培を知ったとしても、慣行栽培からの切り替えはすごく勇気のいることだと思いました。

篠江:
畑を見た時、10年後には有機栽培がもう少しスタンダードになる時代がくるだろうと思ったんです。乗り遅れる前にやっておきたいというか。
でも現状、有機認証を受けている農家は町内でうちの1軒のみ。いつもは乗り遅れるタイプなんですが「早めに乗り過ぎたかな」なんて不安になることもあります。

有機栽培は思った以上にリスクが少ないやり方だと思います。投資したものもありましたが、全部駄目になるというリスクはなかったので。失敗したとしても、周りに「失敗したな」と思われるぐらいなものなんです。

ーー有機栽培を始めた当初はやはり苦戦したのでしょうか?

篠江:
まず有機栽培認証を受けられる畑をつくるのに、約3年かかります。認証を受けないで有機管理をして大豆を育てたところ、環境や条件が揃っていたおかげかうまく育ったんです。

篠江:懸念していた小麦も、有機栽培で使える化学物質を含まない農薬さえも使わずに、うまく栽培できたんですよ。結局「何もしない」のが1番強いってことにびっくりしました。

最近の品種は改良を重ねて、病気に強いものが多いそうです。中川さんの以前からの取り組みがあったからこそ、自分の農場でも育てることができたのだと思います。

地元「オフイビラ」の名前を残したい

オフイビラ源吾農場というユニークな農場名。本別町として合併した6村の一つが「オフイビラ(負箙)村」でした。アイヌ語で「ウフイ・ピラ」と呼び、「燃える崖」または「燃える河原」という意味があるそう。

本別町開拓時の話や地名の背景なども丁寧に教えてくれた篠江さん。自身が運営しているブログでも詳しく内容が書かれていました。

ーーブログを読んで気になっていたのですが、農場に「オフイビラ源吾」と名付けたのはなぜですか?

篠江:
オフイビラ(負箙)はかつてのここの地名です。ちょうどオフイビラ地区の開基100周年の時期に、歴史を調べていたら、開拓期のオフイビラに「源吾」という人物が存在したことを知りました。

十勝開拓の父と呼ばれた依田勉三が十勝で入植先を探していたとき、オフイビラの源吾の家に泊まったと記録されています。源吾さんは、本別が開拓される10年以上前から住んでいたということ。相当すごいことだなと思ったんですね。

篠江:それが今となっては、「オフイビラ」は住所名にも表記されていません。このまま過疎化が進んで自治会もなくなったら、オフイビラの名前自体無くなってしまうんじゃないかと。

せっかくなら残したいと思って、自分の農場に名前を付けました。

私たちは先人がいるから今もこうして生活できている。歴史の橋渡しになればいいなと思います。

ーー歴史を調べようと思ったのはなぜですか?

篠江:
入植時代は、化学肥料を使わずに農業をしていたんじゃないかと思って、参考にするために調べました。肥料を使わずにどのくらい収穫量があったんだろうと気になって調べたんですが、予想は外れましたね。当時から既に、過リン酸石灰という化学肥料が使われていたんです。

オフイビラ源吾農場入口にあったオブジェ
オフイビラ源吾農場入口にあったオブジェ

開拓期の明治13年〜17年には甚大なバッタの被害も受けていたようで、作物を育てるのは大変だったようです。地元にある「バッタ塚」の石碑は小さい頃から知ってるんですが、そんな歴史があったのは知らなかったです。地元の歴史をたどるとこの土地の特性も知れて、面白いなと思いますね。

ーーオフイビラないし本別町の土地にはどんな特性があるのでしょう??

篠江:本別は、夕日が当たりやすい土地だと聞いたことがあります。十勝には日高山脈があるので、平野中央部よりも東側にある本別の方が当たりやすい。

北海道農業研究センターの農学博士の池田先生いわく、植物は赤い光を浴びると果実が甘くなったり、実りがよくなるそう。本別では夕日の光をたっぷり浴びるから、とりわけ豆が美味しく育つ。豆のまち本別といわれる所以は、夕日のおかげもあるんでしょうね。

篠江:デメリットは、本別の地形ですね。河岸段丘といって、川の流れに沿って階段状の地形になっていることから、作物の収穫量や品質も毎年ばらつきが出てしまう。細かくいろんな作物ができるのはいいんですが、品質が違うとブランドが作りづらいのはありますね。

もうひとつ、本別はとても雨の少ない地域です。他の地域では、畑にならないような土質でも降水量が少ないおかげで生産できる畑も少なくありません。近年の温暖化の影響なのか雨の多い年も増えてきて、以前の本別の良さが半減しているように感じています。

天候は避けようがないですが、試行錯誤が必要かなと思っています。

有機技術が広がる未来へ

走り出しは順調だったオフイビラ農場の有機栽培ですが、「2022年は本当に苦しい年だった」と篠江さんは言います。苦境に立たされる中で、有機栽培を広げるために未来を見据えた想いが秘められていました。

ーー最初は順調だったとのことでしたが、約10年間の道のりの中で大変だったのはいつですか?

篠江:
10年目の今年ですね。2022年は本当に雨が多かったので、案の定やられました。豆もじゃがいももいつもより育ちが悪かった。順調に進んでいたと思っていた有機栽培ですが、ついに壁が立ちはだかったような気持ちです。

作物の品質は落ちてしまうし、中川さんから教えてもらったやり方に自分のオリジナリティを加えたら、大豆の除草がうまくいかなかったんです。植え始めに失敗したもんだから、ずっと草取りする羽目になりましたよ。

ーー大変な年だったのですね。その他にも有機栽培を続けていて感じる課題はありますか?

篠江:
作物を育てることはできるのですが、小麦の収穫量が少ないのが懸念点です。毎年増減はありますが、有機栽培に取り組み始めた頃と比べて収穫量が減っているのを、なんとかしたいなと思っています。

畑を3年に1回休ませて、ひまわりや燕麦(えんばく)を植えて緑肥をつくっているんですが、育ち方にムラがあり、良いところは畑に還元できるのですが、育ちの悪いところは還元できる量が少なくなってしまうので、バランスをとるのが難しいですね。

今後は、地域の酪農家さんから堆肥をもらって、地域内で循環できる仕組みを作っていけたらと考えています。さらに、周りで有機栽培する人が増えれば、技術も向上すると思うんです。今は「点」での取り組みですが、本別町内が「面」となって勝負できたらいいなと思ってます。

ーーいろんな葛藤がある中、有機栽培を続ける理由は何ですか?

篠江:
年々肥料が高騰していますし、肥料も農薬も輸入できない時代がくるかもしれない。その場合、日本で養える人数は約3,000万人と言われています。

でも肥料や農薬を使わなくても育てられる技術がある。技術を継承して広げることで、少しでも多くの人たちを養うことができたらいいなと。今僕たちがやっていることが、未来に繋がっていって欲しいですね。

ーー今後の展望や、消費者に届けたい想いはありますか?

篠江:
有機栽培の農作物が少しでも広がっていって欲しい。
有機栽培ってまだまだ見た目が不恰好なものもありますが、過程や背景にも注目して選んでもらえるとうれしいなと思います。選んでくれる人が増えれば、自ずと有機栽培も広がっていくはずですから。

本別という小さい町でも一体となって取り組めば、加工業者も企業も振り向いてくれる。有機農産物オーガニックをブランドにした町おこしもできるかもしれない。

みんなで一緒に何かをやれば、未来の農業に希望が持てると思うんです。そのために僕は今後も有機栽培を続けていきますし、発信もしていくつもりです。

篠江さんの歴史や先人を重んじながら、「農業」を学ぶ姿が印象的でした。

「2022年度はとても大変だったよ」と笑いを交えながら語ってくれた篠江さん。その言葉の裏に、「次は必ずうまくやってやる」という未来への決意を感じました。

篠江さんの想いとともに、人と環境に優しい農法が広がっていくことを願います。

会社情報

〒089-3443 
北海道中川郡本別町西美里別321番地3

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