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先代の言葉と共に受け継がれ60余年。水産加工の幅を広げるうろこ市の物語

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先代の言葉と共に受け継がれ60余年。水産加工の幅を広げるうろこ市の物語

稚内市事業者の想い

文:三川璃子 写真:小林大起

“しばれる”冬風にさらされ、旨味がギュッと凝縮される干物。”しばれる”とは、北海道弁で「厳しい寒さ」を意味します。強い風が吹き荒ぶ稚内で60年以上に渡り、干物をはじめとする海産物を扱ってきた、水産加工会社うろこ市。

減船による漁獲量の減少など、時代の波に翻弄されながらも歴史を守り続ける、うろこ市3代目の秋元哲哉さんにお話を伺います

父との勝負で受け継がれるバトン

昭和29年に設立された株式会社秋元水産加工場(現うろこ市)。創業60余年、3代にわたり大切に受け継がれてきました。

ーー創業時から今までどのように歩んできたのでしょうか?

秋元
:秋元水産加工場(うろこ市)は、祖父が創業しました。祖父はもともと利尻島の昆布漁師で。稚内に来た当初は、一人で細々と水産業をやっていたみたいです。昆布を獲る技術があったので、昆布漁師の手伝いをして、少しだけ取り分をもらっていたと聞きました。

当時の写真を見たことあるんですが、水産加工場といっても、土を掘って柱と屋根だけが建っているような場所でした。祖父が基盤を作った後に、祖母と当時8歳の父も稚内に移りました。創業して事業が軌道に乗るまでは、本当に厳しい生活だったそうです。私が子どもの時に、よく話を聞いていました。

棒ダラを干している様子
棒ダラを干している様子

ーーその後、お父様、秋元さんへ代が受け継がれていったのですね。

秋元
:父は大学卒業後に2代目を継ぎ、私は一度就職した後、ここを継ぎました。昔から父に「お前の今の常識は大した常識じゃない、広い世界を見ろ」って言われていたので。外の常識を見るためにも、自然な流れで稚内を出て関東の大学へ進みましたね。

大学卒業後は、北海道の大手小売会社に就職しました。その頃はちょうど求人倍率が10%ほどの就職氷河期時代。運良く何社か内定をもらったんですが、就職先に迷って父に相談したんです。その時「川上論で考えればいい」という話をされました。川上は市場、私たち水産加工会社は川中、川下はスーパーなどの小売業者。これからの時代は、消費者のニーズに合わせた商品開発が主流になるはずだから、消費者に一番近い川下の会社がいいんじゃないかと。

ーーお父様の助言で一度小売業への就職を決めたんですね。その後、どのような流れで3代目を継ぐことになったんでしょう?

秋元
:就職の相談をした日に、父と「家業を継ぐか継がせるかの勝負」が始まりました。

「俺がお前に、ここを継いでくれと言ったら、お前の勝ち」
「お前が逆に、うちの会社を継がせてくれと言ったら、俺の勝ちだ」

父は私が継ぎたくなるような会社に育てる。私は父が継がせたくなるような人材になる。この勝負で、私も父もそれぞれの道で頑張ることになりました。

ーー勝負の結果はどうなったのですか?

秋元
:会社員時代、何回か父に呼び出されて、商談の場に付き合わされたりしたんです。その時に「取引先と話できるんだったら、大したもんだ、帰ってこい」と言われて、3代目を継ぐことになったので、私の勝ちだと思っているんですが・・。数年後に確認したら、「そんなこと言ってない」と、うやむやにされましたけどね(笑)

魚価の高騰に、売り手の減少。大きな壁に立ち向かう

就職した会社を辞め、稚内に戻って3代目を引き継ぐことになった秋元さん。しかし、代を受け継いですぐに苦境に立たされることになります。

ーーうろこ市を引き継いだ当初、大変だったことはなかったですか?

秋元
:とにかく大変なこと続きでしたよ。約20年前私がここを引き継いだ時、稚内では減船が相次いで漁獲量がガクンと減った時期でした。漁獲量が少ないのに、加工場はたくさんあって、圧倒的にバランスが悪い状況。仕入れの魚価が高くなると、うちの原価も上がります。札幌や旭川などの中心都市で売ろうとしても、「こんな値段じゃ買えないよ」と断られるばかりで。どんどん売れなくなりました。本当にあの時は辛かったですね。

ーーそんな苦境をどのように乗り越えたんでしょうか?

秋元
:帰ってきた当初は、仕入れの方法もわからなかったので、父に市場での入札や競りのやり方を教えてもらいました。漁船の名前、希望の数量を書いて札を入れる。教えてもらったのはそれだけ。その後は「全て任せた」とだけ言われて、市場に一人で行くことに。

私が競りで仕入れないと、加工場で働いているスタッフの仕事がなくなります。従業員の生活を背負って何度も市場に行きますが、魚価が高すぎて満足に仕入れることができない。父に相談しても「落ちる値段で入れて、合わせればいい」の一言。落ちる値段で買っても、結局高すぎて売れないから意味がないと思ってました。
ある時視点を変えて、「契約しているところ以外にも日本中に売り先はあるはず。じゃあ、価値を認めてくれる売り先を探そう」と思い、日本全国を駆け巡りました。「買ってくれませんか?」と電話して、ダメだと言われても、スーツを着て現地まで交渉しに行きました。

買い付けの時も同じ。稚内はよく時化(しけ)るので、1週間に1度しか競りが行われないこともよくあります。でも、競りがない時でも営業している加工場はある。別の仕入先を開拓すれば、営業できると気づきました。北海道中の港を調べて、うちで扱える魚種が獲れるかどうか聞いて。交渉するために必死に動き回ってましたね。

「毎年必ず新商品を」工夫を凝らし、先を見つめる

苦境に立たされながらも、秋元さんは買い付け先と売り手を開拓し、うろこ市の商品開発にも力を入れてきました。その背景には、どんな想いがあったのでしょう。

秋元
:毎年1品ずつ商品開発をしています。10品開発したら、2品ほどは細く長く生き延びる商品が作れるという計算です。残りの7、8割は、もちろん失敗することもあります。でも作ってみないと、売れるか売れないかはわからない。だから毎年作っていますよ。

ーー毎年新商品を開発する背景には何があるのでしょうか?

秋元
:うろこ市は、干物が主力です。干物は冷たい風のある冬にしか干せないので、夏は仕事がなかったんです。そうすると従業員の仕事もなくなってしまう。「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」って祖父がよく言っていて。今仕事がないのは、工夫が足りない=商品が足りないからだと思って、商品開発を進めました。

うちで扱う魚種が売っていない日も、お休みの日も市場に出向いて、商品開発のヒントを探しました。気になった魚は一匹ずつ買って、さばいたり、実際に料理を作ったりしてどうやったら売れるのか考えました。

「同じことを同じくやっていたら、去年の90%もいかないぞ」という、前職の上司の言葉も心に刻まれていますね。前年の100%を切るということは、今いる従業員全員が満足して働けないということ。従業員にも家族がいます。みんなの働く場を守るために、一品でも新しいものを作っていきます。

ーー現状にあぐらをかかず、常にアップデートされていっているのですね。

秋元
:いえ、そんなんじゃないですよ。不安なだけです。忙しい時も、暇な時も商品開発に取り組んでます。仕入れできなかった時期、商品が売れなかった時期。仕事がなくても市場に出た日。スタッフを働かせられなかった時。こういう悲しい時期をもう二度と味わいたくないから、今できることをしたいと思うだけです。

ーー中でも思い入れのある商品はありますか?

秋元
:鮭とばですね。子どもの頃、祖母が作ってくれた鮭とばを商品化しました。よく家で祖母と一緒に作って食べていた、思い出の味なんです。

商品化したのには理由があって。軒先に吊るしていた鮭とばが、朝になって盗まれていることがあったんです。「ちょうど明日食べごろだね」と、祖母と出来上がりを楽しみにしていたので、悲しかったですね。その出来事を思い出して、「これを商品化してちゃんと売ったら盗まれることはないな」と思ったんです。

あと棒ダラは歴史がありますね。室町時代から食べられていたという説もあるほど。でも国内では、もう4社しか作っていないんです。

棒ダラの材料は、シンプルに鱈のみ。あとは干すだけで味付けも何もしません。ですが、干し方が本当に難しくて。均等に乾かさないと、外身が干し上がらず、水に戻す時に身がべちゃべちゃになってしまいます。天候の変化を見つつ、鱈の状態に合わせて寝かしたり、風だけ当ててみたり。塩も砂糖も添加物も使用しないので、身の柔らかさや保存期間など、細かな調整もできません。ひたすら鱈と会話してやっていくしかないんです。

うちでやっているのは、大昔から変わらないやり方。伝統的な棒ダラを絶やさぬよう、守っていくのも、私たちの役目だと思っています。

バッドのように大きい棒ダラ。釘が打てるほどの堅さです。
バッドのように大きい棒ダラ。釘が打てるほどの堅さです。

商品の幅も、働く人の幅も広げる

うろこ市の店内には、ずらりと並ぶこだわりの商品をもとめる観光客の姿が。隣の飲食店「海鮮炉端うろこ亭」では新鮮な地元食材を使った料理が味わえ、加工場の見学もできます。水産加工にとどまらず幅を広げ続ける、うろこ市のこれからを伺います。

ーーこの間、隣の飲食店「うろこ亭」を利用しました。地元の方もたくさんいらっしゃるんですね。

秋元
:飲食店の立ち上げ当初は、お客さんが一人も来ませんでした。始めたばかりは、お客さんが入ってくるデータが読めなかったので、とりあえず毎日朝9時〜22時まで営業。営業後に残った作業をするので、毎日夜中3時に終業して朝5時〜6時に仕入れに行く毎日です。とにかく必死に休みなく働きました。1年間はずっとそんな感じでしたね

海鮮炉端うろこ亭 店内の様子
海鮮炉端うろこ亭 店内の様子

ーー厳しい状況の中、ここまでやり続けられたのはなぜだったのでしょう?

秋元
:従業員のみんなが、ここまでついてきてくれたからだと思います。みんなの働く場を守りたいし、ちゃんと給料を出してあげたい。そんな想いでやってきました。

あと、父との二人三脚もよかったと思ってます。仕事がなくて厳しい時、父にこう言われました。

「俺とお前、二人でずっと足元を見てやっててもどうにもならない」
「お前が数ヶ月先を見ろ。その時俺は1年先を見る。俺が10年先なら、1年先を見ろ」

二人で足もとを見てたら道に迷う。二人で遠くばかりを見ても転んで、怪我する。私が目先で起こることを見て、父は遠くを見るという役割分担で、ここまでやれたのかもしれません。

ーーお父さんとの二人三脚が支えになったのですね。今後の「うろこ市」への展望は?

秋元
:うちは歴史的な棒ダラもあれば、三枚下ろしにしたフィレ、揚げるだけのカスベザンギのような商品もあります。伝統的なものから、現代的なものまで、幅のある会社にしたいです。魚が獲れなかった、仕事がなかったあの悲しい時代に戻らないためにも、幅広い商品が必要だと思っています。

働く人の幅もですね。伝統をつなぐためには、年配の方の力が必要。新しい発想や手際の良さ、スピード感は若い方の力が必要です。商品の幅も、働く人の幅も、寛容に受け止め、町に必要な会社でありたいと思っています。

本当にずっと一生懸命やってます。工場見学もやっているので、稚内に来たらぜひ立ち寄って欲しいですね。うろこ亭では、稚内ならでは料理を味わえます。窓から海を眺めながら、町の空気や匂い、雰囲気、全部含めて体感してもらいたいなぁ。最後に「あそこいいとこだったな」って優しい気持ちが残って、稚内を好きになってくれると嬉しいですね。

「先代に比べたら、こんなの大したもんではないかもしれません」と語る秋元さん。先代を尊ぶ心を忘れず、うろこ市を守り続けてきた姿が垣間見えました。何度も苦境に立たされたうろこ市だからこそできる、こだわりと想いが詰まった商品。ぜひ一度味わってみてはいかがでしょうか?

店舗情報

株式会社うろこ市
〒097-0022
北海道稚内市中央5丁目6番8号
電話 0120-211-911
営業時間 9:00~17:00 定休日 無休
※10月~11月、1月~3月は、日曜定休

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